[#表紙(img/表紙.jpg)] ハーメルンの笛吹き男 —— 伝説とその世界 —— 阿部謹也 目 次  ○第一部 笛吹き男伝説の成立   はじめに   第一章 笛吹き男伝説の原型 [#ここからゴシック体] [#地付き]グリムのドイツ伝説集 [#地付き]鼠捕り男のモチーフの出現 [#地付き]最古の史料を求めて [#地付き]失踪した日付、人数、場所 [#ここでゴシック体終わり]   第二章 一二八四年六月二六日の出来事 [#ここからゴシック体] [#地付き]さまざまな解釈をこえて [#地付き]リューネブルク手書本の信憑性 [#地付き]ハーメルン市の成立事情 [#地付き]ハーメルン市内の散策 [#地付き]ゼデミューンデの戦とある伝説解釈 [#地付き]「都市の空気は自由にする」か [#地付き]ハーメルンの住民たち [#地付き]解放と自治の実情 [#ここでゴシック体終わり]   第三章 植民者の希望と現実 [#ここからゴシック体] [#地付き]東ドイツ植民者の心情 [#地付き]失踪を目撃したリューデ氏の母 [#地付き]植民請負人と集団結婚の背景 [#地付き]子供たちは何処へ行ったのか? [#地付き]ヴァン理論の欠陥と魅力 [#地付き]ドバーティンの植民遭難説 [#ここでゴシック体終わり]   第四章 経済繁栄の蔭で [#ここからゴシック体] [#地付き]中世都市の下層民 [#地付き]賤民=名誉をもたない者たち [#地付き]寡婦と子供たちの受難 [#地付き]子供の十字軍・舞踏行進・|練り歩き《プロセツシヨン》 [#地付き]四旬節とヨハネ祭 [#地付き]ヴォエラー説にみる〈笛吹き男〉 [#ここでゴシック体終わり]   第五章 遍歴芸人たちの社会的地位 [#ここからゴシック体] [#地付き]放浪者の中の遍歴楽師 [#地付き]差別する側の怯え [#地付き]「名誉を回復した」楽師たち [#地付き]漂泊の楽師たち [#ここでゴシック体終わり]  ○第二部 笛吹き男伝説の変貌   第一章 笛吹き男伝説から鼠捕り男伝説へ [#ここからゴシック体] [#地付き]飢饉と疫病=不幸な記憶 [#地付き]『ツァイトロースの日記』 [#地付き]権威づけられる伝説 [#地付き]〈笛吹き男〉から〈鼠捕り男〉へ [#地付き]類似した鼠捕り男の伝説 [#地付き]鼠虫害駆除対策 [#地付き]両伝説結合の条件と背景 [#地付き]伝説に振廻されたハーメルン市 [#ここでゴシック体終わり]   第二章 近代的伝説研究の序章 [#ここからゴシック体] [#地付き]伝説の普及と「研究」 [#地付き]ライプニッツと啓蒙思潮 [#地付き]ローマン主義の解釈とその功罪 [#ここでゴシック体終わり]   第三章 現代に生きる伝説の貌 [#ここからゴシック体] [#地付き]シンボルとしての〈笛吹き男〉 [#地付き]伝説の中を生きる老学者 [#地付き]シュパヌートとヴァンの出会い [#ここでゴシック体終わり]   あとがき   参考文献 [#改ページ] [#ここから5字下げ] 歌、詩、詞、曲は、私はもともと民間のものだと思います。文人がそれを取って自分のものとし、作るたびにいよいよ理解し難くしたのです。それを結局は化石にしてしまうと、さらに彼らは同じように他のものを取り、またもや次第にそれを殺してしまうのです。 [#地付き]魯迅、高田淳著『魯迅詩話』の訳文による [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   第一部 笛吹き男伝説の成立 [#挿絵(img/fig1.jpg、横116×縦134)、下寄せ] [#改ページ]  はじめに  一九七一年五月のある日、私は西ドイツのゲッチンゲン市にある州立文書館の一室で一四、五世紀の古文書、古写本の分析に没頭していた。古文書の分析それ自体はいわば単調な作業であって、精神の集中や高揚した気分を必要とはするが、古文書館の外で営まれている日常生活や世界の情勢、日本のニュースなどからは隔離された一種独特な雰囲気のなかで毎日営まれ、いわば世俗的な関心をいったん濾過した状態で進められるものである。  天井の高い静かな一室で、その日も私は一年半も毎日つづけられてきたのと同じような作業をつづけていた。私がその頃従事していたのは、バルト海に面した東プロイセンのある地域の古文書史料を徹底的に調査、分析する仕事なのだが、その日も例によってひとつの村の文書を系統的に調べていた。クルケン村の項を調べていた私はなんの気なしにこの村に関する最近の研究のページをくってみた。そのとき私の目にとびこんできたのが〈鼠捕り男 Rattenfanger〉という言葉である。それによると、クルケン村にあるジュルグンケンの水車小屋を舞台に鼠捕り男の伝説が残されているという。  ある男が粉ひきのところに住み込みで働かせて欲しいと頼んだが、冷淡にあしらわれたので、鼠を小屋中にあふれんばかりに送り込んだ。粉ひきが泣かんばかりに謝ったので、男は鼠を近くの湖の氷に穴をあけてそこに導き溺れさせた、という。ここまで読んだ時すでに私の背筋を何かが電気のように走るのを感じた。この研究者はさらに私が研究していたザクセン地方に〈ハーメルンの笛吹き男〉にひき連れられた子供たちが入植した可能性がある、と書いていたのである。  古文書の解読と分析に多少疲労していた私の頭は、それまでの単調な仕事からの息抜きを求めてあっという間に想像の羽をひろげていった。〈ハーメルンの笛吹き男〉。それは数十年の昔小学生だった私の家にあったまだら[#「まだら」に傍点]の服を着たあのおとぎ話の男のことではないだろうか。思い出してみるとあの話は単なるメルヘンとしてはあまりに生々しくユニークであり、単なる事実としてはあまりに幻想豊かな詩と現実との交錯した彩りをもっていた。そういえばゲッチンゲンから北約八〇キロのところにハーメルンの町がある。うかつにもこれまで気がつかなかったが、この話には何か深い秘密が隠されていそうだ。私が今研究している中世東ドイツ植民運動とも密接な関係がありそうだ。私は文書館の一室で立ったまま、われを忘れて想像の世界に浸ってしまっていた。  気がついたとき、私の傍に老練な文書館員ゾイカ(残念なことに一昨年突然あの世へ逝ってしまった)が来ていて、「何かお考えですか」という。われにかえった私は、ちょうど昼過ぎになっていたので、そそくさと書類をまとめて、昼食をとりに家に帰ったのである。  その日から私はいわばこの伝説に憑かれてしまった。毎日午前中は文書館に出かけてこれまで通りの仕事をつづけ、午後には大学の図書館でこの伝説に関する文献史料を集め始めた。さらに土曜、日曜には妻と息子二人を連れて、ハーメルンの町まで出かけたりした。  すでに一七世紀末に哲学者のライプニッツが「この伝説には何か真実がかくされている」と述べ、深い関心を示して、その解明にのり出したこともやがて解った。私も調べてゆくうちに、一三〇人の子供たちが一二八四年六月二六日にハーメルンの町で行方不明になった、ということが歴史的事実であることを発見して以来、文書館でこの話にはじめて興奮させられた時とは質の違った深い持続的な興奮にとりつかれていた。それは単に幼年時代に記憶をかすめていった伝説を大人の目で解明するといった面白さではなく、また子供たちは一体どこへ行ったのかという、この伝説がもっている謎解きの面白さだけでもない。それら以上に一三〇人のいとけない子供たちが行方不明になったという、異常な事態の背後にある当時のヨーロッパ社会における庶民の生活の在り方が私の関心を強くひいたからであった。いずれにせよひとたび最初の興奮を自分のなかで整理し、秩序だてて自分の関心を追求しようとすると、この伝説の探求もまた私の日常を規定する営みとして、史料を集め、文書を読むという作業として行なう以外にはなかった。  幸いなことにこの伝説の探求は、私がそれまで長い間かけて追求してきた問題と同一線上にあって、いわば私のこれまでの研究生活のなかに咲いた小さな花ともいうべき位置を占めることになった。私はすでにこの伝説のエッセンスともいうべき内容と位置づけを『思想』一九七二年一一月号(五八一号)で行なったことがある。本書においては、さらにその後に明らかにしえた結果を援用しながら、この伝説を中心にすえ、主として当時の人々の社会生活に観察の目を向けていこうと思う。  一三世紀ドイツの小さな町で起った、ひとつの小さな事件から生まれたローカルな伝説であるかもしれないが、この伝説は僅かの間に全世界に知られるようになった。一二八四年に起ったこの事件が何であったにせよ、この頃のハーメルンの人々の悲しみと苦しみが時代を越えて私たちに訴えかけているからであろう。その悲しみと苦しみを生み出した当時の人々の生活に接近するとき、私たちはこの伝説に対する素朴な謎解き的関心や好奇心を越えて、ヨーロッパ社会史の一面に直接触れることになるだろう。 [#改ページ]  第一章 笛吹き男伝説の原型  グリムのドイツ伝説集[#「グリムのドイツ伝説集」はゴシック体]  私たちが子供の頃絵本で、あるいは中学や高等学校の教科書で読んだ笛吹き男(パイドパイパー)の話は主としてグリム兄弟の伝説集(一八一六)かロバート・ブラウニングの詩『ハーメルンのまだら色の服を着た笛吹き男』(一八四九)からとられている。英語圏への影響力はブラウニングの詩の方が大きかったが、ドイツにおいてはグリム兄弟の『ドイツ伝説集』は決定的な意義をもっており、前者が詩であるのに対し、後者が「古伝説の蒐集」を目指したものであることを考えても、まずグリムのテキストをみることからはじめなければならないだろう。幼年期のわれわれを魅了した伝説の直接の原型はどのようなものだったのだろうか。 [#ここから2字下げ]  一二八四年にハーメルンの町に不思議な男が現われた。この男は様々な色の混った布で出来た上衣を着ていたので「|まだら男《プンテイング》」と呼ばれていたという。男は自ら鼠捕り男だと称し、いくらかの金を払えばこの町の鼠どもを退治してみせると約束した。市民たちはこの男と取引を結び、一定額の報酬を支払うことを約束した。そこで鼠捕り男は笛をとり出し、吹きならした。すると間もなく、すべての家々から鼠どもが走り出て来て男の周りに群がった。もう一匹も残っていないと思ったところで男は〔町から〕出て行き、鼠の大群もあとについていった。こうして男はヴェーゼル河まで鼠どもを連れてゆき、そこで服をからげて水の中に入っていった。鼠どもも皆男のあとについて行き、溺れてしまった。  市民たちは鼠の災難を免れると、報酬を約束したことを後悔し、いろいろな口実を並べたてて男に支払いを拒絶した。男は烈しく怒って町を去っていった。六月二六日のヨハネとパウロの日の朝——他の伝承によると昼頃となっているが——、男は再びハーメルンの町に現われた。今度は恐ろしい顔をした狩人のいで立ちで、赤い奇妙な帽子をかぶっていた男は小路で笛を吹きならした。やがて今度は鼠ではなく四歳以上の少年少女が大勢走り寄ってきた。そのなかには市長の成人した娘もいた。子供たちの群は男のあとをついて行き、山に着くとその男もろとも消え失せた。  こうした事態を目撃したのは、幼児を抱いて遠くからついていった一人の子守娘で、娘はやがて引き返して町に戻り、町中に知らせたのである。子供たちの親は皆家々の戸口からいっせいに走り出てきて、悲しみで胸がはりさけんばかりになりながらわが子を探し求めた。母親たちは悲しみの叫び声をあげて泣きくずれた。直ちに海陸あらゆる土地へ使者が派遣され、子供たちかあるいは何か探索の手がかりになるものをみなかったかが照会された。しかしすべては徒労であった。消え去ったのは全体で一三〇人の子供たちであった。  二、三の人のいうところによると、盲目と唖の二人の子供があとになって戻ってきたという。盲目の子はその場所を示すことが出来なかったがどのようにして楽師〈笛吹き男〉についていったのかを説明することは出来た。唖の子は場所を示すことは出来たが、何も語れなかった。ある少年はシャツのままとび出したので、上衣を取りに戻ったために不運を免れた。この子が再びとって帰したとき、他の子供たちは丘の穴のなかに消えてしまっていたからである。  子供たちが市門まで通り抜けていった路は一八世紀中葉においても(おそらく今日でも)舞楽禁制《プンゲローゼ》通りと呼ばれた。ここでは舞踊も諸楽器の演奏も禁じられていたからである。花嫁行列が音楽の伴奏を受けながら教会から出てくる時も、この小路では楽師も演奏をやめて静粛に通りすぎなければならなかった。子供たちが消え失せたハーメルン近郊の山はポッペンベルクと呼ばれ、麓の左右に二つの石が十字形に立てられていた。二、三の者のいうところでは子供たちは穴を通り抜け、ジーベンビュルゲン(今日のハンガリー東部の山地)で再び地上に現われたという。  ハーメルンの市民はこの出来事を市の記録簿に書き留めた。それによると、市民は子供たちの失踪の日を起点にして年月を数えていたという。ザイフリートによると、市の記録簿には六月二六日ではなく二二日と記されているという。市参事会堂には次のような文字が刻まれている。 [#ここから3字下げ]  キリスト生誕後の一二八四年に  ハーメルンの町から連れ去られた  それは当市生まれの一三〇人の子供たち  笛吹き男に導かれ、コッペンで消え失せた [#ここから2字下げ]  また新門には次のようなラテン語の碑文が刻まれている。 [#4字下げ]マグス(魔王)が一三〇人の子供を町から/攫《さら》っていってから二七二年ののち、この門は建立された。  一五七二年に市長はこの話を教会の窓に画かせ、それに必要な讃を付したが、その大部分は判読不可能となっている。そこにはひとつのメダルも彫られている。 [#ここで字下げ終わり]  以上がグリムの『ドイツ伝説集』に掲載された〈ハーメルンの子供たち〉の全文である。グリムはそれに一〇点に及ぶ参考文献を付しており、単なる読みものとしてでなく、伝説の厳密な再録を意図していたことを示している。  私たちがその昔絵本などで読んだ〈笛吹き男〉の話にあった、足の悪い男の子の話はどこにあるのだろうか。そこでは友達が皆笛吹き男に連れられて楽しい国に行ってしまった時、たった一人とり残されてしまった子供の悲しみが語られていなかっただろうか。清冽な水が湧き出て、樹々は果物をたわわに実らせ、蜜蜂は刺をもたず、馬には鷲の翼が生えている。そのような国に行きそびれた男の子の悲しみが語られていたはずである。  すべて伝説というものがそうであるように、この伝説も時とともに大きく変容してきているのである。私たちが幼年時代に読んだり聞いたりした〈笛吹き男〉の話は主としてブラウニングの脚色になるものであり、ブラウニングは一九世紀中葉に想像の翼を広げて、詩人的幻想世界のなかでこの伝説を「少年少女のための物語」に書きかえたのである。グリム自身いくつかの異なった伝承を伝えているように、この話にはグリムが編集する以前にすでに様々な異伝がある。  そうしたヴァリエーションの多くは、無意識のうちに違った形で語り伝えていった庶民の隠された願望や想いによって生まれたものなのである。こうした伝説変貌の過程については第二部で詳しく扱うことにして、ここでは一九世紀初頭にグリムが蒐集した段階で以上のような形で残されていたこの〈笛吹き男伝説〉が、いつ、どのような状況のもとではじめて伝説として形成されていったのかをみてゆこう。  伝説 Sage とはおとぎ話・メルヘンと違って本来何らかの歴史的事実を核として形成され、変容してゆくものだからであり、特にこの〈笛吹き男と一三〇人の子供の失踪伝説〉はまったくのフィクションとは考えられないほどの迫力をもって、人々の記憶に深く跡をとどめているからである。  鼠捕り男のモチーフの出現[#「鼠捕り男のモチーフの出現」はゴシック体]  グリムを通して現在われわれに知られている〈笛吹き男〉あるいは〈鼠捕り男〉伝説のモチーフのすべては、すでに一六五〇年にローマで出版されたヴュルツブルクの自然科学者、アタナシウス・キルヒャー(一六〇一〜一六八〇)の『普遍的音楽技法(ムスルギア・ウニヴェルサーリス)』のなかにほぼ完全な形で叙述されていた。  グリムは鼠が町に及ぼした被害についてはほとんど伝えていないが、キルヒャーは一二〇〇年頃にハーメルンの町に鼠が急に繁殖し、鼠の歯にかじられないものはほとんどなく、穀物も果物もすべてやられ、市民がなすすべをなくしていたことを詳しく伝えている。そこへ奇妙な姿をした男が現われ、報酬を約束させたうえで笛を吹き鼠を退治したこと、また報酬の支払いを拒絶され、怒って子供たちを攫《さら》って消え失せたことなど、すべてグリムと同じ内容を伝えている。ただ男が子供たちを集めたときは鼠を退治したのとは別の笛を使ったこと、ハーメルンの町の外、ヴェーゼル河沿いに駄馬などを入れる洞穴があり、そこへ狩人の姿をした男が子供たちを誘い込んだとみている点がグリムと違っている。しかも時代の影響を受けて、キルヒャーはこの〈笛吹き男〉は神の秘められた命を受けて子供たちを地上の別の場所へ移した悪魔であったに違いないと解釈し、同じ頃にジーベンビュルゲンで、聞いたこともない他国の言葉を話す子供たちが突如として現われた、と年代記にあることを伝えている。  こうして、キルヒャーの書物はグリムが伝えたモチーフをすべて備えている点で、伝説の形成においてひとつの重要な地位を占めているのだが、さらに遡ってみると、この伝説変貌の歴史のなかで主要な地位を占めている二つの記録にぶつかる。ひとつは一五六五年頃とみられる『チンメルン伯年代記』であり、もうひとつは一五六六年にバーゼルで出版されたヨハンネス・ヴィエルス(一五一五〜一五八八)の『悪魔の幻惑について……』なる書物である。 『チンメルン伯年代記』はボーデン湖の北にあるメスキルヒで書かれたもので、そこでは一五三八年に鼠の被害があり、放浪の冒険家アーベントイアーによって駆逐されたこと、一五五七年にもシュヴァーベンガウに同じような鼠の被害があったことが伝えられ、この二つの話の間に〈ハーメルンの鼠捕り男伝説〉が挿入されている。ここでは鼠たちがヴェーゼル河ではなく山に連れ込まれたとある以外、それ以後の伝説のモチーフと本質的にまったく違ったところはみられない。  しかしこの年代記は〈笛吹き男伝説〉成立史のなかでは決定的な意味をもっている。というのはこの年代記にはじめて〈鼠捕り男〉がハーメルンの子供たちの失踪と結びついて現われ、しかもその話の筋はすでにグリムのそれと寸分たがわない形で示されているからである。一五六五年以前の〈ハーメルンの笛吹き男伝説〉には鼠のモチーフはまったくみられず、ただ一三〇人の子供の失踪を伝えているだけなのである。さらにまた、すでにこの頃にハーメルンの町の伝説がドイツの最南端にまで伝わっていることがこの記録から解る。  エラスムスの弟子にあたり、メランヒトンが極めて学識豊かな人物と評したという、ヨハンネス・ヴィエルスはライン河沿いのユーリッヒ・クレーフェ・ベルクの医者で、その人文主義的精神から当時の魔女裁判に対して果敢な攻撃をかけていた。彼の書物は魔女裁判に対する最初の論戦を挑んだものだといわれ、皇帝の推薦(保護状)があったにもかかわらず、ローマ教会の禁書目録に加えられた。ヴィエルスはアダムとイヴの時代から同時代までの悪魔の謀《はかりごと》の例をあげ、そのなかでハーメルンの伝説をとりあげている。ヴィエルスは悪魔の存在そのものは信じていたのである。事件の日付は一二八四年六月二六日と今日確認しうる正しい日付を示し、いろいろな色の混ざった服を着た笛吹き男が、一三〇人の子供たちをコッペンの近くに連れていって消え失せたことを伝えている。ここでは市の裏切りに対する笛吹き男の報復が冒頭で述べられ、伝説形成史に新しいモチーフを提供している。またある子供が服を着るために家に戻り、取り残されたこともここではじめて語られている。  その他同書四版(一五七七)では子供たちの失踪が朝七時頃で、子供たちは洞穴の中に消えたとされ、さらに舞楽禁制通りとの関連もはじめて伝えられている。第四版を書くにあたってヴィエルスは自らハーメルンを訪れており、子供たちが消えたと伝えられている洞穴を自分の目で見ている。ヴィエルスは結論として「これはおそらく笛を吹く吸血鬼の仕業であろう」と述べている。 [#挿絵(img/fig2.jpg)]  この二つの記録以前に遡ると、鼠捕り男のモチーフと笛吹き男による子供たちの失踪という伝説はまったく別の方向に分れてしまう。二つのモチーフはようやく一六世紀中葉に結合して、今日の伝説の原型を作りあげているのである。そこでまず「笛吹き男による子供たちの誘惑」のモチーフを主として追ってゆこう。こうして私たちは子供たちの失踪を伝える直接証拠たる、いわゆる中世史料の領域に入ることになる。  最古の史料を求めて[#「最古の史料を求めて」はゴシック体]  子供たちの失踪を伝える最古の記録は、現在のところハーメルンのマルクト教会のガラス絵とみられている。この教会はハーメルン最古の教会で、商人団体の教区共同体を最初の母体として成立し、すでに一二世紀後半には三つのネーブをもったバジリカと直角の祭壇部分と外陣をもった教会が建築されていた。一三〇〇年頃に大規模な改築がなされ、それは一九四五年に空襲で破壊されるまで残っていた。その教会の東の窓に一三〇〇年頃の改築の際に〈笛吹き男と子供たちの失踪〉をモチーフとしたガラス絵(高さ六メートル・幅三メートル)がはめられていたと考えられる。そしてその絵には説明文がつけられていた。 [#挿絵(img/fig3.jpg)]  一五七二年に当時のハーメルン市長フリードリッヒ・ポッペンディークがこの絵を修正させ、一六六〇年には他の絵と取り替えられてしまった。しかしハーメルンのラテン語学校校長サミュエル・エーリッヒはその前に原画を見て、一六五四年にその碑文を書写し、彼の著書『ハーメルンからの失踪』(一六五四)のなかに再録している。それは年月をへたために判読不可能な部分も多いが図のようなものであった。 [#挿絵(img/fig4.jpg)]  これだけでは内容は皆目見当がつかないが、このガラス絵碑文はすでに一六世紀に多くの記録や碑文のなかに採り入れられている。それらを参照して、ハーメルンの郷土史家ハンス・ドバーティンは次のように再現している。 [#2字下げ]Am Dage Ioannis / Et Pauli CXXX / Sint Binnen / Hammelen Ge / Faren THo/Kalvarie unde / Dorch Geled in / Allerlei Gefar / Gen Koppen Fur / Bracht unde Verlorn  強いて訳せば「ヨハネとパウロの日(すなわち六月二六日)に、ハーメルン市内で一三〇人の者がカルワリオ山の方向(すなわち東方)へ向い、引率者のもとで多くの危険を冒してコッペンまで連れてゆかれ、そこで消え失せた」となる。 [#挿絵(img/fig5.jpg)]  もとより、このような不完全な碑文の再現には、すでに再現する者の見解に従って、かなりのよみ込みが加わるものであり、ドバーティンはここでいくつかの後述するような自説をこの解釈のなかに埋め込んでいる。だがここではその点に立入らず、はっきりしない点は一応そのままにして次の史料に移ろう。  子供たちの失踪を伝えるその次に古い史料は、一三八四年頃のハーメルンのミサ書『パッシオナーレ』のタイトルページに赤インクで書かれたラテン語の脚音詩である。このミサ書はその後行方不明となっているが、この脚音詩は一七六一年にハーメルンの牧師ヘルが『ハーメルン市史集成』にオリジナルから転載している。この脚音詩もヘルの記録だけでは意味のとれない部分があるが、ドバーティンが原型に近い形を再現しているものによると次の通りである。 [#ここから2字下げ]  一二八四年、この年は男と女が消え失せた年であり、一三〇人の愛すべきハーメルンの子供たちが天意によってか奪い去られた「ヨハネとパウロの日」のあの年である。人はいう、カルワリオが子供らを皆生きたまま呑み込んだと。キリストよ、このような不幸にみまわれないように罪人を守り給え  一二八四年、「ヨハネとパウロの日」にカルワリオ山に入っていった一三〇人の子供たちが行方不明になった。 [#ここで字下げ終わり]  中世史料の第三番目は、数奇な運命をへて一九三六年に再発見されたリューネブルクの手書本《てしよぼん》である。この手書本は一七一九年にライプニッツの協力者ダニエル・エーベルハルト・バリングが『ブラウンシュヴァイク年代記』の校正をみているときに、リューネブルクの文書館で発見し、後述するようにライプニッツも目を通しながら、それ以後知られることなく眠っていたものである。これはミンデンの修道士ハインリッヒ・フォン・ヘルフォルト(?〜一三七〇)の『金の鎖(カテナ・アウレア)』の筆写本の最後の頁に追記されたもので、一四三〇〜五〇年頃に書かれたものとみられている。全文を記すと次の通りである。 [#ここから2字下げ]  まったく不思議な奇蹟を伝えよう。それはミンデン司教区内のハーメルン市で主の年一二八四年の、まさに「ヨハネとパウロの日」に起った出来事である。三〇歳位とみられる若い男が橋を渡り、ヴェーゼルフォルテから町に入って来た。この男は極めて上等の服を着、美しかったので皆感嘆したものである。男は奇妙な形の銀の笛をもっていて町中に吹きならした。するとその笛の音を聞いた子供たちその数およそ一三〇人はすべて男に従って、東門を通ってカルワリオあるいは処刑場のあたりまで行き、そこで姿を消してしまった。子供らが何処へ行ったか、一人でも残っているのか誰も知るすべがなかった。子供らの親たちは町から町へと走って(子供たちを探し求めたが)何も見つからなかった。  そしてひとつの声がラマで聞こえ(マタイ伝二ノ一八)、母親たちは皆息子を思って泣いた。主の年から一年、二年、またある記念ののちの一年、二年という風に年月が数えられるように、ハーメルンでは子供たちが失踪したときから一年、二年、三年というように年月を数えている。私はこのことを一冊の古い書物でみた。院長ヨハンネス・デ・リューデ氏の母は子供たちが出てゆくのを目撃した。  この同じ小都市ハーメルンでは一三四七年七月二四日にも次のようなことが起った。ひとつの排水溝は長い間鉄張りの戸で閉じられていた。この戸が排水溝のなかに落ちてしまった。三人の兄弟が、最初に落ちた子を助け上げようとしてなかに落ち、皆そのなかで窒息死してしまった。この排水溝のなかには竜かバジリスク(人を睨み殺すといわれる怪蛇)がいたと人はいう。だがそのなかで長い間封じ込められていた空気が悪くなっていたからだ、とみた方がよいだろう。 [#ここで字下げ終わり]  以上三点が〈笛吹き男による子供たちの失踪〉についての中世史料のほとんどすべてである。一五〇〇年以後の史料はすべて二次史料であり、ルネッサンスと人文主義・宗教改革などの時代状況に決定的に影響を受けているから、この伝説の原型を探るには以上の三点の史料と正面から四つに取り組まなければならないのである。  すでにみた一六世紀以降のヴィエルスやキルヒャーなどから、グリム、ブラウニングにまでいたるこの伝説の祖述者たちが語り伝える内容と比べて、これらの中世史料が決定的に異なっているのは、それらの記録がいずれも何の飾り気もない事実の報告であり、何ら超自然的な要素を含んでいない点にある。伝説というものはその発端をなす歴史的事件に近づけば近づくほど素朴単純な形を現わしてくるものであり、その意味で今のところこれらの中世史料はこの伝説の最も古い記録とみることができる。そこでまず、これらの史料から歴史的事実に近いものと考えられるモメントを確認してゆかなければならない。  失踪した日付、人数、場所[#「失踪した日付、人数、場所」はゴシック体]  これらの三点の史料すべてに共通しているモメントとして、われわれはまず事件の日付をあげることが出来る。一二八四年のヨハネとパウロの日、すなわち六月二六日に何らかの事件が起ったことは、ほぼこれらの史料から歴史的事実と推定しうるからである。  ハーメルン市の法書(ドナ)に載せられている一三五一年四月四日付の文書には、市参事会は市内のノイエマル20トにある屋敷がアメルングスボルン修道院に売却されたことを示しているが、その末尾に「……わが公証人ヨーハン・トゥレマンの手を通して与えられた。主の年一三五一年。子供らの失踪ののち……二八三年。アンブロシウスの日に」とつけ加えられている。この最後の子供たちの失踪ののち……二八三年 post exitum puerorum …… cc¡ lxxxiii という部分はどう考えてもドバーティンのいうように post exitum puerorum (anniM¡) cc¡ lxxxiii、すなわち子供たちの失踪ののち二八三年、と読まなければならないと思われるのだが、それにしても一年ズレている。『ハーメルン市文書集』を集成したオットー・マイナルドゥスはまさにこの子供たちの失踪 post exitum 以下の部分は一六世紀の書家の手になるものだとして、この部分を史料集から削除し、註記に留めている。ドバーティンはそれに対し、この文字は一四世紀のものだとして反論している。ハーメルン市文書館に保存されているこの法書のオリジナルをみたドバーティンは、この字もトゥレマンのものだというのだが、われわれには判定のしようもない。しかし他の諸事情を考えても一二八四年六月二六日という日付は動かしようがないだろう。ドバーティンもその点については異論がない。  つぎに失踪した者についての名称とその人数についてはどうだろうか。中世史料はいうまでもなくすべてラテン語で記されており、ラテン語の pueri 子供、一三〇人という数字も動かせないように思える。もとよりこの点についても「私は江戸っ子[#「子」に傍点]ですよ」というのと同じような意味で、ドイツでも「市生まれの者 Stadtkind」という言葉が大人についても使われることもあって、あとでみるようなドバーティンの異論(子供ではなく成人した大人であったという)が出てくるのだが、学説にとらわれず史料だけをみる限り、複数の史料が一三〇人の子供、と証言していることは素直に受けとめねばならないだろう。  さらにその子供たちの運命について以上の三点はすべて、カルワリオのあたりで行方不明になったことを伝えている。  こうして「一二八四年六月二六日、ハーメルンの子供たち一三〇人がカルワリオのあたりで行方不明になった」ことがまさに現実に起った歴史的事実として以上の中世史料から確認しうることになる。  しかしこのように伝説の核心となる歴史的事実を確認した時、われわれはこの三点の中世史料がその淡々とした筆致と粉飾のない文章とによって、一種の事実の報告としての価値をもっている反面、肝腎な点が欠けていることに気付かざるをえない。すなわちこの一三〇人の子供たちがどうして行方不明になったのか、これらの史料には示されていないからである。これらの史料の記録者にとって子供たちの失踪の原因はすでに謎となっていたのであり、それ故にこそこれらの記録が作られたのである。こうしてわれわれの伝説の出発点となった歴史的事件に最も近いところで記された史料が、皆すでに伝説の霧のなかで書かれたものであることが解る。そこでこれからいよいよ、これらの記録を書いた人々にとって、すでに謎となっていた事件の全貌を探り、伝説の霧の彼方にあるものを解明するという、極めて困難な作業にとりかからなければならない。 [#改ページ]  第二章 一二八四年六月二六日の出来事  さまざまな解釈をこえて[#「さまざまな解釈をこえて」はゴシック体] 〈一三〇人の子供たちの失踪〉の原因についてはこれまでドイツや他の国においても長い間研究がつづけられてきた。ほぼ四〇〇年にもわたるヨーロッパにおける研究史を概観せずに、この伝説の歴史的背景について語ることは許されないだろう。ヴォルフガング・ヴァンはこれまでの解釈の試みを二五のテーゼに分類している。まずそれを展望しておこう。 [#ここから1字下げ] (1)舞踏病 一五九〇/一六〇四(ヨハンネス・レッツナー) (2)ジーベンビュルゲンへの移住 一六二二(論者不詳。これは事実の解釈というよりは伝説の域に入るもの、と註記されている) (3)子供の十字軍 一六五四(サミュエル・エーリッヒ) (4)一四五七年または一四六二年のノルマンディーへの聖ミカエル巡礼 一六五四(同前) (5)野獣に食い殺された 一六五四(同前) (6)純然たるつくり話である 一六五四(S・シュピルカー) (7)ユダヤ教の儀式の犠牲として殺された 一六五九/六二(マルチン・ショック) (8)地下にある監獄に閉じ込められた 一六五九/六二(同前) (9)一二八五年に偽皇帝フリードリッヒ二世(例えばティレ・コルップ)のあとをついていった 一六五九/六二(同前) (10)東門の前の試合で命を落した 一六五九/六二(同前) (11)崖の上から水中に落ち溺れ死んだ 一六五九/六二(同前) (12)地震による山崩れで死亡 一六五九/六二(同前) (13)修道士によって修道院内に誘拐された 一六九〇(フランシスクス・ヴェルガー) (14)狂信的な鞭打苦行者の群とともに消えた 一六九〇(同前) (15)群盗に誘拐された 一六九〇(同前) (16)何か解らない目的のために招集された 一七〇五(著者不詳) (17)一二六〇年のゼデミューンデの戦で戦死した 一七四一(J・C・レーガー) (18)新兵として召集された 一七八八(F・J・モラー) (19)砕石見習工としてベーメンまたはジーベンビュルゲンへ送られた 一八三四(著者不詳) (20)基礎となっているのは妖精伝説である 一八四五(ゲッチンゲン大学教授W・メラー) (21)古キリスト教の儀式のための殺人 一八四七(G・F・ダウマー) (22)純然たる神話的モチーフ 一八七五(M・ブッシュ) (23)遍歴伝説がハーメルンにもたらされた 一八八〇(L・デリース) (24)死の舞踏の叙述から派生したもの 一九〇五(R・サリンジャー) (25)ペストに似た疫病多くの人の死亡 一九〇五(同前) [#ここで字下げ終わり]  以上にはさらにヴァン自身やドバーティンの新説・東ドイツ植民説やヴォエラー女史の遭難説を加えねばならないだろう。  こうして展望してみると、原因の探求自体がそれぞれの研究者のおかれていた時代と無関係に営まれたのではないことが一見して明らかとなる。この点については第二部で扱うのでここでは立入らないが、これらの多種多様なこれまでの原因論のうち、今もなお検討に値するものとしては、(1)、(2)、(3)、(9)、(11)、(12)、(24)ならびに東ドイツ植民説をあげることが出来るだろう。だがこれらの多様な原因論を分析するためには、われわれは何よりもまずこの事件の舞台となったハーメルンの町と住民、当時の世界と社会についてかなりの知識をもっていなければならない。そしてまさにこの当然の観点が、これまでのこの伝説研究のなかではあまり重視されてこなかったのである。  それは従来の伝説研究の多くが民俗学の枠内で営まれ、時間の推移と時代の背景をなす都市の諸状況との関係のなかでこの事件を位置づける試みが大変少ないばかりか、かなりの場合興味本位な面が強く出ていたり、または子供たちは何処へ行ったのか、というような謎解き的な関心によって支えられていたことによるものと考えられる。  子供たちが何処へ行ったのかという疑問は当然の疑問であって、追求すべき課題ではあるだろうが、はじめに述べたような関心からすると、なぜ子供たちが出て行かなければならなかったのか、なぜ子供たちの失踪がこれほど有名な伝説となったのか、という点にむしろ関心を集中すべきではないだろうか。そうなるとむしろ原因は当時のハーメルン市内の諸状況に求めなければならなくなる。  リューネブルク手書本の信憑性[#「リューネブルク手書本の信憑性」はゴシック体]  こうした観点からこれまでの原因論を分析し位置づけるために、私はここで再び中世史料のうち最も内容の豊かなリューネブルク手書本に戻り、この事件を解明するうえで必要ないくつかの項目を探し出し、それらを順次吟味してゆきたいと思う。 [#挿絵(img/fig6.jpg)]  まず全体についていえることはこの手書本の書き手が今の言葉でいえば驚くほど醒めた頭の持主であった、ということである。前半のハーメルンの子供たちの失踪を伝える筆致にもそれは窺えるが、あまり人が注目しない後半の排水溝の叙述は極めて科学的なものである。  当時の人々がこの排水溝のなかに竜やバジリスクがいると考え、変死の原因をそこに求めたとしても、この時代としてはさして不思議ではない。われわれはこの時代としてはかなり教養の高かったはずの聖職者でも同じような考え方をし、「不思議な出来事」に恐れおののいている記録をいたるところで読むことが出来るのである。しかるにこの書き手はそうした迷信は信ぜず、おそらく現代風にいえば一酸化炭素中毒ないしは酸欠空気によって死亡した、ということをはっきりいってのけている。  こうした書き手の冷静な態度からみて、一四三〇〜五〇年頃のハーメルンの町において人々が〈子供たちの失踪〉をどのように受けとめていたのかを伝える前半の部分についても、この書き手はかなり正確に当時の人々のイメージを再現している、と考えてよいと思われるのである。 [#挿絵(img/fig7.jpg)]  中世史料のなかで唯一ともいうべきこの内容豊かな史料の文面に、歴史のフィルターを通してしか現われていない事件の実体を探るために、われわれはこの文書に出てくる人間と事柄それぞれについて、一二八四年からこの文書が成立したとみられる一四三〇〜五〇年までの変化ならびに当時の実状をみなければならない。そのためにまず第一に探索の対象となるのは、(一)ハーメルンの都市自体である。  この町は一二八四年頃にはどのような状態にあり、どのような問題をかかえていたか。それらは一四三〇〜五〇年の頃にどれほど変化していたか。こうした点が前提として解明されなければならない。ついで問題となるのは、(二)この事件の一方の主人公である子供たち一三〇人である。しかしいうまでもなく、中世都市における子供たちの生活を、この一二八四年という時点においてとらえることは史料的にみて不可能に近い。そこでこの問題は子供たちの行方を探した親と一体にして追求しなければならない。いうならばハーメルン市民層の問題である。ハーメルンの市民層は一二八四年頃にはどのような状態にあり、どのような問題をかかえていたか、そしてそれらは一四三〇〜五〇年頃にはどのように変っていたか、がおよその形にせよつかまえられねばならないのである。(三)最後に問題となるのはこの事件のもう一方の主人公〈笛吹き男〉である。〈笛吹き男〉とは一体何か。なぜ彼がこの文書においては事件の主人公たりえたのか。笛吹き男とハーメルン市ならびに市民やその子供たちとの関係はどのような状態のなかにあったのかが、同時に時の流れのなかで答えられねばならない。  これらの問題に答えるなかで、これまでの西欧における検討に値する原因論=仮説も紹介し、それに対して私の意見を述べてゆくことになるだろう。さらに以上の都市、市民、笛吹き男の諸問題は、いうまでもなくハーメルン市の問題として検討されるのは当然だが、ハーメルン市だけを孤立して扱うのではなく、当時のハーメルン市がおかれていた全ヨーロッパ的な位置のなかで、これら三つの問題が取り扱われねばならない。  こうすることによってはじめて、この伝説の探求は単なる謎解き的面白さを越え、ヨーロッパ社会史に接近するひとつの突破口となりうるであろう。  ハーメルン市の成立事情[#「ハーメルン市の成立事情」はゴシック体]  ハーメルンの町とは一体どこにあるのだろうか。ドイツ連邦共和国には大まかにいって四本の大きな河の流れがある。フランスとの境の近くにあるライン河、オーストリアとの境を貫くドーナウ河、ドイツ民主共和国との北の境にあるエルベ河、そして北海からドイツの真中を貫くヴェーゼル河である。ヴェーゼル河は「ブレーメンの音楽隊」で知られ、世界への門の鍵を握るといわれたハンザ都市ブレーメンを通り、ミンデンからミュンデンにいたり、ミュンデンでフルダとヴェラの二つの河となってさらに南にのびている。 [#挿絵(img/fig8.jpg)]  ミンデン・ミュンデン間は、いわゆるヴェーゼル=ベルクラントといわれるあかるくのびやかな流域で、河幅も広くゆったりとした流れである。夏には人々が遊覧船やカヌーで河遊びを楽しみ、岸辺にはサイクリング道路や林をぬけるドライブウェーが走り、森のかげには洒落たレストランのある、今でもあまり文明の埃《ほこり》を受けていない地域なのである。この周辺はあまり土地が肥沃でないために大きな集落はなく、一七世紀にフランスのユグノーが迫害を逃れて、移住してきてつくった小さな集落がその名も「|神への誠実《ゴツツトロイ》」といった敬虔な名前に相応しく、ひっそりとしたたたずまいをみせている土地柄である。現在でもこのような状態だから、八、九世紀にはほとんどみるべきものはなかったといってよい。  この地域において早くからキリスト教の布教に従事していたのが、ヴェーゼル上流のフルダ修道院であった。ヴェーゼル河にハーメル河が合流し、ミンデンからヒルデスハイム、パーダーボルン、ハノーヴァーヘの古来の街道が通う要衝にフルダ修道院は前進基地を設けた。これがハーメルン市の前身ともいうべき、聖ボニファティウス律院の発足であった。七八〇年頃には、この律院は支配圏であるティリチガウとともにミンデン司教区に併合され、フルダ修道院の聖界における支配から脱している。 [#挿絵(img/fig9.jpg)]  こうしてハーメルンの律院にいた聖職者はミンデン司教の下に入り、フルダ修道院に残ったのは財政上の権限を除けば、ボニファティウス律院の院長《プロプスト》を任命する権利だけとなった(その権利も一三世紀にはフルダから失われた)。こうした聖界行政区分の問題は面倒だが、これもわれわれの伝説と切っても切れない関係をもっているので、少なくとも以上の点だけは記憶に留めておいていただきたい。一〇世紀頃の人名簿によると、ハーメルンのボニファティウス律院には一一人の修道司祭と多くの生徒がおり、その名前はゲルマン的なものであったといわれる。  フルダ修道院はハーメルンの周辺にも、ザクセン族のベルンハルトらから多くの寄進を受けて、広い土地をもっていた。九世紀の史料では、少なくとも一一一の農園が七つの賦役農園団体にまとめられていたとされている。ハーメルンにはひとつの賦役農園があった。その他ハーメルンには六〇人の賃租農民がおり、教会三ヶ所、水車五ヶ所があった。これらはやがてすべてハーメルンの律院の所有下におかれることになってゆく。  フルダ修道院はこうして九世紀から一三世紀の間に院長任命権や貨幣鋳造権、関税、守護権などを辛うじて保つにすぎなくなってゆく。フルダ修道院を中心とする大荘園領主制、いわゆるヴィリカチオン制の解体という現象がここでも認められるのである。  それではこうした律院からハーメルン市はどのようにして生まれたのだろうか。  この町はライン河からヒルデスハイムをへてエルベ河までドイツを横断してゆく軍用道路に沿って建設された。現在のハーメルン市のあたりでヴェーゼル河を渡る橋は、かなり早くフランク時代からあり、その橋を維持するために周囲に隷農の村が設置されていた。この橋を作るための材木は周辺三八ヶ村から徴発されたという。古来商人もこの橋をしばしば使用し、橋のたもとでフリースランド産の布が土地の者に売られたりしていた。一二七七年の史料にはまだ古い型の橋の言及があり、一三九〇年には早くも石造の橋となっている。こうした事実からも東西交通の要衝としてのこの橋の重要性は推定出来よう。  一〇世紀後半にフルダ修道院は国王からハーメルンの市場高権を与える旨の特許状を得た。修道院はここで貨幣を鋳造し、通過する船から関税を徴収し、市場を訪れる者から市場税をとりたて、市場の秩序を維持するための警察権も行使しうることになった。一一七〇年頃に死んだ、スラヴ族へのキリスト教の伝道者ヘルモルトはこの町のことを当時「ヴィラ、プブリカ、クヴェルンハーメレ」と呼んでいる。これは水車をもつ市場定住地のことである。一二三五年にはじめて登場するハーメルン市の紋章《ワツペン》にも水車が彫られていることからみて、この町の経済がかなりの程度、水車を使った製粉業に依存していたことが想像出来るだろう。後になるとハーメルン市は、水車用の磨臼の石を特産品として売っていたほどである。子供の頃に読んだ絵本の水車小屋を思い出してみよう。ゴロゴロとゆったりまわる水車小屋のなかでは大きな軸が横にまた縦にゆっくりまわり、杵がゴットン、ゴットンとにぶい音をたてている。床や柱はすべて粉まみれ、そして壁の穴や天井裏からは鼠のキラキラ光る目がのぞいている。水車小屋と鼠は切っても切れないパートナーなのである。 [#挿絵(img/fig10.jpg)]  中世においてはどこでも穀倉に鼠の害はつきもので、悩みの種であった。ここで私たちは一六世紀になって、〈鼠捕り男伝説〉がハーメルンにおいても大きな意味をもつようになるひとつの根拠をみたことになる。  とにかくこうして、先に述べたような軍用道路にかけられた橋のそばの土地に最初の市場定住が行なわれた。ここでは律院が支配権を握っていたから、市場定住者は律院に屋敷税(ヴルトゲルト)を払わねばならなかった。  交通の要衝にある市場での様々な営利の機会を求めて、移住者が増加してもそれだけで都市が出来るわけではない。ドイツ中世の都市は皆例外なく城壁に囲まれ、教会と市場、市参事会堂を中心とした秩序をもっている。こうした都市のたたずまいはなしくずしに出来たのではなく、多くはきちんとした計画に基づいて形成されたのである。それではハーメルンに現在もそのままの姿を留めている町並はいつ、誰によって計画され、建設されたのだろうか。  どこでもそうだが都市の建設は通常大商人、騎士、大土地所有者らによって行なわれ、ハーメルンも例外ではない。ハーメルンで都市建設の中心となったのはすでに一二世紀初頭にフルダ修道院からハーメルンの律院の守護(フォークタイ)職を知行(レーエン)として得ていたエーフェルシュタイン伯アルベルトであったとみられる。守護は本来武力をもたない修道院を守るという建前でおかれ、現実にはフルダ修道院の世俗的利益をも守るために、ハーメルンの裁判高権を委ねられている者のことをいう。  ハーメルン市文書集には一一八五〜一二〇二年にかけて、はじめてキヴィタス・ハメレン(ハーメルン市)という名称が出てくるから、おそくとも一二世紀末には都市建設の大綱は完了していたとみられる。聖ニコラウスが都市教会の守護の聖人とされていることも、ほぼ同市の建設がこの時代であったことを示している。サンタクロースの名でわが国にも知られる聖ニコラウスの遺骸は、小アジアのミュラから一〇八七年にイタリアのバーリに移されたが、ドイツで崇拝されるようになるのはそれから数十年をへた後のことだからである。 [#挿絵(img/fig11.jpg)]  こうしてエーフェルシュタイン伯を中心として商人、土地所有者らの協力のもと最初の都市計画が作られたとみられるのだが、どのようにして彼らは都市を建設したのだろうか。  一一、二世紀にはピレンヌのいわゆる「商業の復活」とともにヨーロッパ北部に多数の都市が簇生《ぞくせい》してくる。今日われわれが訪れることの出来るドイツの都市も、ほとんどがこの時代に生まれたものである。すでに触れたように、こうした「商業の復活」に先駆けたのがフリースランドの商人であった。ハーメルンの建設も、当時全ヨーロッパにおいて盛んに行なわれた都市建設の一環なのだが、かなり遅れてその列に加わったハーメルンの場合、この地域特有の事情も無視することは出来ない。  当時このザクセン地方最大の権力者はヴェルフェン家のハインリッヒ獅子公であったが、時の皇帝フリードリッヒ一世バルバロッサは、一二世紀末にハインリッヒを倒した。フリードリッヒは並はずれた権力基艦をもつハインリッヒを倒すため、諸侯にハインリッヒの遺領を分配する約束をしなければならなかった。その結果ハインリッヒ獅子公失脚ののち、ニーダーザクセンのいたるところで、小伯、領主層は自分たちの独立した領域支配を形成するために競って努力を傾け、互いに抗争を重ねることになった。フリードリッヒ・バルバロッサと関係が深かったエーフェルシュタイン家もその戦列に加わっていたのである。  既存の支配圏の網の目をぬって、新しい支配領域を形成することは容易なことではない。ハーメルン市の建設ははじめはフルダ修道院の院長が妨害したとみられる。それは都市の成立によって隷属民が新しい都市に移ってしまい、収入が減少するのをおそれていたからだといわれる。しかしこうした経済的な損害は市場権等をフルダ修道院が保持しえた限りで、相殺されて余りあるものがあったはずであり、おそらくフルダの心配は都市の成立によってハーメルンの律院とその支配圏、収入のすべてを失ってしまうのではないか、という点にあった。そしてその心配は根拠のあるものであった。  すでに一二世紀末にはハーメルンの律院の参事会はその院長をフルダの任命によることなく、自ら選び、それをフルダの修道院長が承認するという慣行が成立しつつあった。こうして、律院がフルダから独立しようとする努力を援助したのがエーフェルシュタイン家であり、律院の院長は以後常にエーフェルシュタイン家から出され、フルダはそれを拒否出来なかったのである。  こうしてエーフェルシュタイン家は律院と市民を味方に引き入れ、フルダ修道院も名目的な上級支配権をもちつづけるという形で納得して、都市建設が進められたのである。いずれにせよここで古い権力者であったフルダ修道院は実質的には主舞台から退場したといえよう。一二四三年に都市と律院との間に協定が成立した。それによると市参事会は、古来からのヴェーゼル橋への道や律院教会に沿った土地に対する権利が律院側にあることを認め、律院側は代官館(シュルテンホーフ)と並ぶ二〜三の屋敷地が都市法の下に立つことを認めた。また聖堂(ミュンスター)周辺の区画は律院のイムニテート(他の権力の介入を許さない)領域と決められ、市の負担や裁判権から自由な領域とされた。都市と律院との領域的区分が明確にされると同時に、都市の中心は従来より北寄りのオスター通りの方に移っていった。こうして一二〇〇〜一二五〇年の間に、現在われわれがみることが出来るハーメルン市の輪郭は確立されたのである。  そこでわれわれも〈笛吹き男伝説〉と関連することになる多くの遺跡に注意を払いながら、この小さな町をぶらぶらと散歩してみることにしよう。  ハーメルン市内の散策[#「ハーメルン市内の散策」はゴシック体]  ハーメルンへ行くにはいろいろな行き方があるが、現在ならデュッセルドルフ駅を午前九時一九分に急行で出発し、一二時二四分にアルテンベケンで下車、そこで二〇分ほどまってハノーヴァー行きの列車に乗りかえると、一三時三五分にハーメルンに到着する。車で行くならヴェーゼル河沿いに下ってくるのが一番景色がよいだろう。ヘクスター、ホルツミンデンと過ぎ、|木組み白壁造《フアツハヴエルク》の家々の美しい正面《フアサード》を楽しんだあと、ヴェーゼル河にかかった橋を渡ると、もうハーメルンの律院の前に到着する。 [#挿絵(img/fig12.jpg)]  正面にあるのがブリュックトーア(市門)である。一二七七年の史料のなかで橋の存在がはじめて言及されているが、その頃には当然そこに市門が必要になり、ブリュックトーアが建設されたのである。この門は一般にはヴェーゼル門とかヴェーゼルフォルテと呼ばれ、リューネブルク手書本の笛吹き男も私たちと同様にこの門から町に入っていったのである。この門ごしに真正面にみえる黒ずんだ建物がボニファティウス律院であり、聖堂(ミュンスター)がそびえている。ここに前述の中世史料として二番目の、一三八四年頃のものとみられるミサ書『パッシオナーレ』があったのである。この地域一帯が律院の支配領域であり、橋からまっすぐに町へ通じる道を来ると、律院を背後にみたあたりに古い市場定住地があった。この道は市が出来る以前にはヒルデスハイムやマグデブルクに直結する軍用道路だったのである。  私たちは律院をすぎたところで交叉する広い道路を左にまがろう。これはベッカー通りと呼ばれ、この道をしばらく進むと市場(プフェールデマルクト)に到着する。ここにいわゆる新しい町の中心があった。広場の右手に黒ずんだ異様な建物がみられる。これがホッホツァイトハウス(結婚式の家)と呼ばれ、ここに笛吹き男と子供たちについての後述するような一七世紀初頭の碑文が刻まれていた。その前には第二次大戦以前まで市参事会堂があったのだが、これは戦災にあったのち再建されないまま、中世にはなかった広場が出来た。 [#挿絵(img/fig13.jpg)]  ホッホツァイトハウスの前面には露台が作られており、そこで最近は日曜日一一時から〈鼠捕り男と子供たちの失踪〉の寸劇が観光客のために演ぜられる。ハーメルンの町の青少年七五人が出演し、三五人は当時の子供の服装をし、四〇人は鼠に扮する。筆者が見た時には笛吹き男と鼠が行列を組んで出て行く場面だった。しかし彼らはオスター通りを東門には行かず、町をひとまわりするのである。時の変化はハーメルンの人々の意識をも変え、観光資源となったこの伝説は史実から離れて、まさにブラウニングの描いた筋書で町に戻っているのである。  ホッホツァイトハウスの横にマルクト教会(ニコライ教会)がある。この教会は船員とビール醸造業者の守護者ニコラウスに捧げられたものであり、一二世紀前半にすでに西側の塔が建設され、同じ世紀の後半に三つのネーブをもったバジリカと外陣が作られていた。そしてここに中世史料第一番目のガラス絵がかけられていたのである。この教会は一九四五年、空襲によって破壊され、一九五九年に少し形を変えて再建された。この市場(プフェールデマルクト)を右にみて少し進み左に入ると、十分ノ一税館(ツェーントホーフ)にぶつかる。このあたりはハーメルンの町が出来る以前から隷農の村落であり、町はこうした隷属農民の村をとり込んだ形で建設されたのである。だからこのあたりの家は今でも大変狭く、正面の間口も五〜七メートルしかない。これらの家に住んでいた者は中世市民権の条件のひとつであった醸造権をもっていなかった。これらの小さな家々のある道路も旧村道を残しているため、今でも細くクネクネと不規則にまがっている。十分ノ一税館はかつての賦役農園のあとで、現在は都市裁判所になっているが、今でもなんとなく埃っぽい、牛や鶏の匂いが残っているような場所なのである。 [#挿絵(img/fig14.jpg)]  再びプフェールデマルクトに戻り、ホッホツァイトハウスを左にみてオスター通りを東に向おう。この左右の家々の立派さには目をみはらせるものがある。ハーメルンにはこの地方の都市では珍しく、中世においてすでに石造の家がかなりあった。これらは上層市民の家々で、一軒の間口は二五〜四二メートルもあり、それぞれビール醸造権をもっていた。このオスター通りをまっすぐに進むと、東門のすぐ前で右に細長い道が入ってくる。これが「舞楽禁制通り」(一四二七年にはじめてこの名前が登場する)で、この角にあるのが「鼠捕り男の家」である。 [#挿絵(img/fig15.jpg)]  この家は一六〇二〜三年に建築されたヴェーゼル・ルネッサンス様式の家で、西側に〈子供たちの失踪〉を伝える碑文が刻まれている。子供たちはこの東門から出て行ったのである。それでは「舞楽禁制通り」に入ってみよう。この道が右にまがり、ブリュックトーア(市門)に近づくあたりの家々も狭く、貧しい家並をみせている。後述するようなヴァンの理論は、まさにこの地域の住民の貧しさに立論の根拠を求めているのである。こうしてわれわれはこの小さな町を一巡し、出発点に戻ったことになる。そしてこの伝説に関する重要な史料がある場所もひとわたり見て廻ることが出来た。  ゼデミューンデの戦とある伝説解釈[#「ゼデミューンデの戦とある伝説解釈」はゴシック体]  さて再び一二、三世紀のハーメルンに戻ろう。既存の諸権力圏の網の目のなかでひとつの都市を建設し、維持するのは容易なことではなかった。エーフェルシュタイン家はシュタウフェン家のバルバロッサとヴェルフェン家のハインリッヒ獅子公との争いで前者につき、ハインリッヒの失脚ののち都市建設に成功した。都市建設が軌道にのり、商業の復活と相俟ってその地の利を生かして経済力を強めてくると、小領邦を形成しようとする勢いの小領主エーフェルシュタインの前には、幾多の大きな勢力が立ちふさがることになった。  ハーメルンの律院は最初はフルダ修道院の出先機関として成立したが、なんといってもフルダは地理的に遠く、しかもフルダ修道院がもっていたハーメルン周辺の土地は農民、市民、貴族たちに賃租納入義務と引きかえに与えられていた。ハーメルンの律院はすでに院長も実質的に自ら選ぶようになり、本来フルダ修道院のハーメルンにおける利害を守るべき守護職の地位にあったエーフェルシュタイン家から院長が選ばれるようになると、フルダ修道院は実質的にはハーメルンに大きな力は振えなくなっていた。一二五九年にもフルダ修道院はまだハーメルンを「われわれの都市」と呼んでいる。にもかかわらず守護はフルダのために、徴収すべき貢租類をフルダに送っていないことを一二五六年には明言している。また一二七七年には市の教会は実質的に高権を律院の院長から手に入れている。だから一三世紀後半には、フルダはハーメルンを実質的には失ったも同様であった。  それと反比例してエーフェルシュタイン家は一二三〇〜一二六〇年の間に、ハーメルン市において実質的に領邦君主(ランデスヘル)と等しいほどの権力を行使していた。エーフェルシュタイン家は勿論ハーメルンの他にも、ポレ、ユェルツェン、オーゼン、グローンデなどに城をもち、近隣のホンブルク家、シュピーゲルベルク伯(後述のドバーティン説を参照)などと争っていた。 [#挿絵(img/fig16.jpg)]  しかしこの頃こうした群小領主とは比較にならない大きな勢力が、ハーメルンを脅かしていたのである。それはハインリッヒ獅子公の失脚ののち、一時鳴りをひそめていたブラウンシュヴァイク=リューネブルクのヴェルフェン家による失地回復の攻勢であった。すでにヴェルフェン家はハノーヴァー王国を建設し、一二〇〇年頃にはヴェーゼル沿岸への進出を狙っていた。そしてその進路を妨害する形になっていたのがハーメルンのエーフェルシュタイン家だったのである。このヴェルフェン家の進出は近代にいたるまでハーメルン市の運命を決定した同市最大の出来事だったのである。こうして虎視眈々《こしたんたん》とハーメルンを狙うヴェルフェン家にとって絶好の機会が到来した。  一二五九年二月一三日、フルダ修道院は実質的に意味をもたなくなりつつあったハーメルン市をミンデン司教区に銀五〇〇マルクで売却しようとし、契約をまとめた。すでにみたようにハーメルン市はミンデン司教区にあり、ミンデンの司教は教義や儀式に関してはハーメルンに上級支配権をもっていた。一二、三世紀の領邦支配体制確立の過程で、各地の司教区も単なる教会の霊的職務を遂行するための区画以上のものになっており、ひとつの世俗的支配領域(ランデスヘルシャフト)を形成しようとしていたから、ミンデン司教がハーメルンを単に霊的支配圏としてでなく、領域的支配の対象としようとしたのは当然のなりゆきであった。ハーメルンの併合によってミンデン司教はその領域の一円化をはかろうとしたのである。  同年六月二三日にフルダ修道院長はケルンの大司教に売買契約について報告し、大司教の手で諸特権を新たに授封するよう依頼した。七月二日にケルン大司教からエーフェルシュタイン家とハーメルン市にミンデン司教を新しい封主として認めるようにとの手紙が届いた。両者にとっては、事態はまったく寝耳に水であり、あらかじめ何の話し合いもなく、ただ結果を伝えられただけであったから、拒否するしかなかったとみられる。  この時からほぼ一年間、この件に関する史料はまったく残されておらず、一二六〇年九月一三日に突如としてヴェルフェン家のアルプレヒト、ならびにヨハンネス・フォン・ブラウンシュヴァイクが登場し、自分たちがハーメルンの半分を授封する地位に立っていることをミンデン司教に宣言させている。この一年間に何が起ったのか。同時代史料は何も伝えていないが一四、五世紀のブラウンシュヴァイクの年代記によると、まさにこの間にわれわれの〈一三〇人の子供の失踪〉の原因となったといわれる事件が起っているのである。  それによると一二六〇年七月二八日(パンタレオニの日)にミンデン司教は売却を認めようとしないハーメルン市と守護職に戦を宣し、ゼデミューンデ村のそばで市民軍と激突した。その戦で市民軍は壊滅的な敗北を喫し、捕えられた市民はミンデンへ送られ、多くは殺された。司教は捕虜の釈放と引きかえに降伏を要求し、ハーメルンは休戦を求めた。市はその間にヴェルフェン家のブラウンシュヴァイク公に救いを求め、前述のような結果になったという。しかしエーフェルシュタイン家がヴェルフェン家に救援を依頼することは考えられないし、この年代記がヴェルフェン家によるハーメルン支配のもとで書かれていることを考え合わせても、年代記の説明をそのまま信ずることは出来ないだろう。『ハーメルン市史』を書いたシュパヌートによると、市民も守護も司教の出方を予期していた。フルダ修道院には売買契約を実行するだけの力はもはやなかったから、ミンデン司教は売買契約の実行を自らの武力でかちとらねばならなかったからである。  司教軍は東側からハーメルン市に近づいていた。市民は戦闘が市内で行なわれるのを避けるために迎え撃とうとした。こうしてハーメルンの若者たち[#「若者たち」に傍点]は東門を通り抜けて、バスベルク(古くはコッペン〔!!〕と呼ばれた)とデュートの間でダイスターフォルテに向っている道に出た。この途上の廃村ゼデミューンデで両軍は激突し、市民軍は後に伝説となるほどの壊滅的敗北を喫した。このとき市が自由を守るために流した血の犠牲がいかに大きなものであったかは、この不幸がその後何百年も教会のクリプタ・ロマーナでの鎮魂のミサで記念されていることに示されている。どんなに激しい疾病も大量死もこのような扱いを受けることはなかった。  こうしてシュパヌートは一九四〇年に『ハーメルン市史』を書いた時点では、〈一三〇人の子供たちの失踪〉はまさにこの事件を出発点とするものであった、と解釈している。そして笛吹き男とは図版に示されているように若者の先頭に立った「喇叭《らつぱ》手」ということになる。 [#挿絵(img/fig17.jpg)]  こうした解釈は一七三四年にハーレンベルクが、一七四一年にはレーガーが出し、『ハーメルン市文書集』の編者マイナルドゥスもこの説に立っていた。この説はほぼ二〇〇年間、最も有力なものとして通用したばかりでなく、ハーメルン市当局もこの説を支持していた。図版で示したゼデミューンデの戦の絵は、第一次大戦後に戦死した市職員の記念にハーメルン市当局が彫らせて、ホッホツァイトハウスに飾らせたものである。 〈ハーメルンの笛吹き男と一三〇人の子供の失踪〉の伝説は、こうして町の伝説として「祖国のための戦死者」のシンボルとして位置づけられた。のちにシュパヌートが述べているように、ゼデミューンデの戦を原因とみる説の根底には祖国解放戦争があったのである。この説が信じられていた二〇〇年とは、まさにドイツが祖国解放と統一のための戦に全力をあげていた時代であった。しかしこの戦闘と〈子供たちの失踪〉との約二〇年のズレは埋めがたいし、何よりもこの戦は一四、五世紀の年代記ではっきりそれと記されており、〈笛吹き男〉や〈鼠捕り男〉伝説と結合すべき根拠もなかった。これらの主張者はいずれもなんの証拠も提出することは出来なかったにもかかわらず、こうした時代的な背景のうえで、一般の承認と納得を得ることが出来たのである。  とはいえこの説の主張者は具体的な歴史的事実のなかから「伝説」解明の手がかりを得ようとした限りで、結論はともかく、それ以前の人々とは異なって伝説研究の正しい道を示すことは出来たのであった。  ゼデミューンデの戦闘が一八、九世紀に〈子供たちの失踪〉伝説の原因とみなされるにいたったのは、この戦闘にまつわる出来事の記憶が、ハーメルン市の歴史のなかで決定的な重みをもって後代まで影響を残していたからであった。この事件をきっかけとしてハーメルン市は一九世紀にいたるまで、ヴェルフェン家の領域支配のなかにとり込まれた領邦都市として生きてゆかなければならなくなったからである。  一二六〇年九月一三日の条約で、ミンデン司教はハーメルン市からの収入の半分を知行としてブラウンシュヴァイク公に委ねた。エーフェルシュタイン家についてはそこでは何も触れられていない。一二六五年一〇月九日の条約ではミンデン司教・守護・都市三者の権利が定められたが、市は司教を市の半分の封主として認める代りに、ミンデン市所有のすべての場所での関税免除の特権をかちとっている。これはハーメルンの商業の発展にとって重要な点であった。こうしてこの頃にはミンデンとハーメルン市とはブラウンシュヴァイク公と対抗するために協力していたとすらみえるのだが、こうした力の錯綜のなかで勝者として残ったのは、いうまでもなくヴェルフェン家のブラウンシュヴァイク公であった。  一二七七年にはエーフェルシュタイン家は、ハーメルンにおいて長年の間占めていた守護職を、ヴェルフェンのアルプレヒトに売却しなければならなくなっていた。その他エーフェルシュタインの本城やオーゼンの城もヴェルフェン家にわたり、ホルツミンデンの城と都市もリッペ家にわたってしまった。かつては大きな力をもったエーフェルシュタイン伯領はこうして衰退していった。ミンデン司教の支配もヴェルフェン家の力の前には単なるエピソードとして残るにすぎなくなったのである。  一二七七年一〇月二八日、ブラウンシュヴァイク公アルプレヒトはその居城のあったアインベックで、ハーメルン市に対して後述するような特権を承認した。この特許状によってハーメルンはヴェルフェン家を領邦君主とする領邦都市になったのだが、その代償として確定した特権の承認を得たのである。  この特許状はハーメルンがはじめて手にした都市法としての意味をももっていたから、これを瞥見して一三世紀後半におけるハーメルン市の状況をまず法制的側面から観察しておこう。 「都市の空気は自由にする」か[#「「都市の空気は自由にする」か」はゴシック体] 「都市の空気は自由にする」という法諺について聞いたことがある人は多いだろう。中世都市の衛生状態は悪く、どんな都市でもひとつの家柄が三代とつづくことは稀だったといわれる。こうした理由から中世都市はどこでもその存続のために流入人口に頼っていたから、農村から隷属民が流入する道を作っておかなければならなかった。この法諺の狙いのひとつもそこにあった。ハーメルンにおいてはこの法諺が都市法のなかで文書として定められたのは、一二七七年をもって最初とする。ここでは「一年と六週間市内に留まった者は自由とする」となっている。  都市の自由とは、このように流入する人々が、かつて人格的支配を受けていた農村の領主から自由となることを意味していたのみでなく、都市内の様々な生活において領邦君主の恣意的支配下におかれない、ということをも意味していた。だからハーメルンに与えられた特許状でもブラウンシュヴァイク公は市内に城を築かず、四〇タレントの自発的租税以外には何らの租税をも課さないことを約している。領邦君主が都市に対してもつ権限の大部分は、その代理人たる守護職を通して法を施行することにあったのだが、この点についても都市側は多くの譲歩をかちとることが出来た。市民間の侮辱について、また売買、復讐断念の誓その他の事柄は市参事会所属の官僚ビュッテルが裁くことが出来た。それまで守護職の下部組織として、都市内に大きな権限を行使していた代官(シュルトハイス)職は律院から都市に移り、市長職も新しく確認された。都市内に住む騎士、家人なども都市法に服することになった。さらに手工業者の組合結成も承認され、その組織(アムト)は市参事会の下に服することになった。市の経済にとって重要な関税、漁獲権なども承認された。しかし当然のことながら、貨幣鋳造権については特許状は何も触れていない。  この特許状は長くハーメルン市の法制の基礎をなし、市は四〇〇年のちにおいてもこの特許状を木版として彫らせ市参事会堂に掲げている。このように特許状の文面だけみてゆくと、ハーメルンは一二七七年になってはじめて「都市」としての法制を整え、一人前の都市になったようにみえる。法制史研究の視角からみるならばまさにそういわねばならないだろう。  しかし私たちがハーメルン市のこの時代の状況をこれまで調べてきたのは、そのような外面的な徴表をたしかめるためではなかった。私たちはこの時代の人々がどのような生活をし、どのような問題を政治や社会に対して感じていたのか、という大変困難な問題に接近するための手続きとして、こうした市の発展を展望してきたのである。このような関心からすると特許状=都市法の整備を通して都市の生活規範が固められてゆく背後において、一般の庶民の生活にそれまであったいろいろな可能性が狭められ、庶民の生活が一定の枠のなかに鋳込まれてゆく姿にこそ目を向けなければならない。  一二、三世紀はヨーロッパのどこにおいても都市の擡頭期であり、市民の活力は溢れ、生産力は増大し、いわば「開かれた世界」の相貌を呈していた。しかし一三世紀の末になると領邦国家の形成とあいまって、こうした庶民の活力に上から「ひとつの型」が定められてゆく。私たちは法制とか社会制度の整備、さらに市壁の立派さとか建物が堅固になったという、誰の目にも容易に見える事実に惑わされてはならない。  こうした外面的繁栄の陰で呻吟していた極めて多くの庶民がいたからである。こうした庶民の嘆きや悲しみをその深みにおいてとらえることは至難の業であるが、それに接近するためには、やはりハーメルン市の経済とそのなかにおける人間集団の在り方に目を向けなければならないだろう。そこでわれわれはリューネブルク手書本から抽出した第二のモメントである子供たちの問題を明らかにするために、この町の経済と人間集団を扱うことにしよう。  ハーメルンの住民たち[#「ハーメルンの住民たち」はゴシック体]  リューネブルク手書本に登場する人物は笛吹き男を除くと、子供たち一三〇人とその母親、(ならびにリューデ氏の母)とこの伝説を書き手に伝えたハーメルンの庶民である。これらの人々に接近するために、まず市民層一般から入ってゆこう。  わが国ではヨーロッパ都市の市民という言葉が、内実不明のまま比較的安易に使われることが多い。市民[#「市民」に傍点]とは何かという問題は、必ずしも時代を越えて答えられるような問題ではないのである。いうならば市民という概念は歴史的な概念であって、個々のケースについてその内実を明らかにしながら使わなければならない。もとより都市の城壁内に住んでいる者がすべて市民であったわけではない。  一般的にいえば市民となる基本的条件としては、都市内部で一定の財産(主として屋敷)をもつ自由人であることが必要であった。これらの人々が都市共同体を形成していたのであるから、彼ら都市共同体の構成員と都市住民とをひとつのものとみてはいけない。都市共同体は都市内で市民権をもてない下層民をしたがえ、その限りで緊張をもちながら、それ故に共同体として成立していたのである。  ハーメルンではどうであったか。ここももとより例外ではなく、すでに前節でみたように、都市計画が成立する以前からヴェーゼル河沿いに律院の隷属農民の村があった。建設期のハーメルンの地図からよみとれるように、ハーメルン市はこれらの村をも市壁のなかにとり込んでいたのである。しかしこれらの隷農はその後も市民団体から排除されていた。彼らは市民権をもつことも許されず、律院の隷属民としての地位に留まっていた。市民は財産・市民権をもっているだけでなく、租税を支払い、警備、防衛義務を負っていたし、市民のなかの有力な者は給料なしで、市や同職組合(ツンフト)の行政職につかなければならなかったから、これらの貧困層は排除されていたのである。これらの隷属民(リーテン)はハーメルンでは一三一四年二月二五日に、律院院長ヴェデキント・フォン・オーゼンと市参事会との約定によってはじめて他の市民と対等とされたのである。  すなわち一二七七年の特許状における「一年と六週間市内に留まった者は自由とする」という法規定が、それ以前からハーメルン市内に先祖代々住んでいる隷属民に対しては、少なくとも通用しなかった内実を窺うことが出来た。この法諺は都市の流入人口を確保するためのものであったから、市内にすでに居る者は論外とされたのである。これに類するような事実はよくみると案外私たちの周辺にもみられることなのである。  いずれにしても一三一四年まで、実質的には同一の都市城壁内部に多彩な階層差を示しながら、多くの住民が住んでおり、しかもそれら相互の間はまだ多少は流動的で、その限りでこの都市はまだ活力に溢れていた。社会的最下層には律院の隷属民があり、また代官館にいた院長職付の隷属民、さらにフルダ修道院の古い市場定住地に定住した商人や手工業者、そしてその他にエーフェルシュタイン家による都市建設とともに、周辺農村から流入してきた移住者と新しい都市の住民などがいた。これらの各階層はそれぞれの出身身分毎に法をもっており、市内での地位も様々であった。  まず律院の隷属民村からみよう。すでに前にみたように、ボニファティウス律院は一四世紀初頭においても荘園領主として農園一〇ヶ所を従えた十分ノ一税館をハーメルンにおいていた。律院は市外にもその他に五六の農園をもっていた。市内の農園は一二世紀に律院の参事会と院長職録が分けられた際に、隷民の賦役と賃祖は前者のものとなり、院長は村の裁判領主にして土地領主となった。その裁判を実際に開いたのが代官であり、年七回裁判を開いた。しかしこの裁判所が扱ったのは罰金六プフェニヒ以下の土地所有に関する事件のみであり、刑事事件はすべて律院守護職の裁判所で裁かれた。  これらの隷属農民の生活はもとより自由ではなく、一人前の家庭をもてる成人に達した喜びの日である結婚式に際しても、またすべての人がまったく孤独に迎えなければならない死去の際にも、律院院長に税金を納めねばならなかったし、土地に緊縛されていたことも決定的な不自由の徴《しるし》であった。都市へ逃れて市民となりたいと思っても院長の許可がなければなれなかった。  このような不自由な隷属農民は市内の完全市民と区別して、教会の隷属農民(カメルリンギ・エクレシアエ)と呼ばれていた。こうした市内における隷属農民は一三一四年に法的には存在しなくなったが、彼らは解放されるにあたって、結婚式と死亡の際の税金の代償として、年一六プフントを院長に支払う義務を負うことになった。いわゆる中世都市内における農奴解放の実体はこのようなものなのであった。同じ年に代官館の隷属民も同様にして市民となることが出来た。  つぎに商人と手工業者層に目を向けよう。これらは前述の隷属農民と違って、いずれも市民権をもってはいたが、それも等質のものではなかった。手工業者は律院の市場定住地に古くから農業兼業で住みついており、荘園法に拘束された組合を結成し、人格的自由を制限された「市民」であった。しかし一三世紀のハーメルンには、パン屋、肉屋、織匠のツンフトしかなかった。それに対し、古くから人格的に自由な商人層がいた。彼らはエーフェルシュタイン家に招かれてハーメルン市建設に参与し、いわゆる完全市民を構成していた。そしてこのような商人層は豊かで大規模な商業活動を営む権利を含む、大コップファールトと呼ばれる市民権をもち、通常の市内の小売業の権利しかもたない小コップファールトなる市民権を与えられた小商人層と区別されていた。 [#挿絵(img/fig18.jpg)]  小商人層は当時(一三五三)の法書規定によると脂肪、バター、ベーコン、チーズ、乾葡萄、イチジク、蜜、蝋、塩漬あるいは燻製の魚などを日常生活品として小量売ることが出来る者のことであり、大商人層とはその他のすべてを売ることが出来る者のことであった。大商人は特に織物(羊毛、リネン、絹などすべての材料からなるもの)、金属、南方の果実や香料、ベーコン、牛脂、油、ピッチ、鉄製品などを扱った。驚くべきことにこうした市民権の社会的差別は一九世紀にいたるまで残っていたのである。 [#挿絵(img/fig19.jpg)]  実際市民のほとんどは周辺農村、すなわちハーメルンのマルク共同体の出であり、マルク自体五つの市門に対応して新門(旧ティエトーア)、西門、東門、ミューレントーア、ブリュックトーアに区分された牧地となっていた。それ故それぞれの市門の前の牧地(フーデ)には、住民を市に送り込んで消滅した数多くの廃村があった。一九世紀にいたるまでこのマルク共同体は牧地や耕地等の利用権については残っていた。一九世紀五〇年代まで、毎朝それぞれの門から羊飼が古い市参事会の規則通り、羊の群をそれぞれの牧地に連れてゆく光景がみられた。今でもネルドリンゲンなどの古い面影を伝える町のなかには、家畜の匂いが強く残っていることに訪問者は気がつくだろう。家畜の匂いとともに古い身分意識も一九世紀の五〇年代まで残存していたのである。  以上の基本的な階層の他に、都市建設とともに流入してきた騎士層や家人層などもいたことはいうまでもない。これらの諸階層はそれぞれの身分差を内包し、矛盾を含みながらも一三世紀末まで一応市民による都市建設という方向では共通の課題とそれに伴う共同の敵をもっていた。市民が都市建設を進めようとするとき、基本的に対立することになるのはどこでもかつての都市領主であり、ハーメルンでは律院であった。そこで次に市民による都市建設の努力と律院との確執のなかで、以上の諸階層がどのような状況のなかに身をおいていったのかをみてゆこう。  解放と自治の実情[#「解放と自治の実情」はゴシック体]  律院院長は律院のそばにあった古来からの市場定住地の所有者であったが、エーフェルシュタイン家が都市を建設するにあたって、同家に譲り、その代償として(また古い市場権を新しい都市に譲ったことの代償として)、新しい都市の市場における警察権を手に入れ、それを代官に行使させていた。代官は年三回市民とともに集会(コロキウム)を開き、市場、産業、警察等のすべての問題を扱い、そこでの決定に従わない者には六プフェニヒの罰金を課すことが出来た。代官の産業規制権は古来律院が従属する手工業者組合に対してもっていた荘園法的規制権に遡るものとみられる。  当時ハーメルンにあったパン屋、肉屋、織匠のツンフトのいずれかに入ろうとする者は一八シリングを支払わねばならなかった。そのうちの三分ノ一はツンフトの手に入り、他は代官の収入となったのである。その他肉屋の組合に新しく入る者は、代官に山羊の皮を出さねばならなかった。代官は年三回各組合とモルゲンシュプラーヘと称する会合を開き、そこで新加入者、死亡、結婚、規約等が報告・討議された。そこで課された罰金は代官がすべて手に入れたという。ここでもわれわれは荘園法的に拘束された不自由なツンフトの姿をみることが出来る。  しかし商人層に対しては、代官はそれほどの権限はもっていなかった。葡萄酒の取引について、代官は市参事会とともに監視していた。ハーメルンには年四回各八日間にわたる大市がたった(聖ペトロ教座記念祭・一月一八日ボニファティウスの日・六月五日ミカエル祭・九月二九日教会献堂祭・一二月六日)。大市はいずれも市参事会堂のまわりやその内部で開かれ、そこに店を出す者は出店代として代官に僅かの貢納を納めればよかった。その額は搬入する商品の量によって異なっていた。商品が小荷車、馬の背またはキーペと呼ばれる負い籠のいずれによって運び込まれるかで、区別されていた。代官はさらに生活物資の売買を監視し、不正な価格操作等については三シリングの罰金をとりたて、その三分ノ一は自らとり、残りは市の金庫に入れた。代官はしかし週市についてはなんの権限ももっていなかった。  いうまでもなく市民はこうした代官の旧い支配体制を打破するために全力をあげ、都市の自由の障害となった代官の権限を買い取ろうとしていた。そうした努力はやがて一二七七年の特許状のなかで成就し、一三二七年には市民が代官の権限を手に入れたことが最終的に確認された。こうして旧時代の都市領主の権限の残滓を一掃した都市は、今度は自ら都市行政を遂行しなければならない。それを行なうのは他の都市と同様ハーメルンでも市参事会の制度であった。  市参事会制度の存在がハーメルンではじめて確認されたのは一二三五年である。しかし市参事会は代官を首席とする形ではかなり早くからあったとみられる。一二七七年に市が代官職を買い取ってからは、その代りに市参事会長(ラートマイスター)がおかれ、それは一四世紀に市長(ビュルガーマイスター)となった。市長は毎年一月六日顕現節の日に選出された。市参事会員は顕現節と聖霊降臨節に半数一二名が交代して元老参事会を構成し、残りの一二名が常任参事会員となり、全員で二四名であった。注目すべきことに、市民は元来全員が市参事会員になる資格をもっていた。勿論、手工業者も例外ではなかった。一二三五〜四六年には屠殺夫が市参事会員になっているし、一二三七年には鍛冶屋が参事会に入っている。  しかるに一三世紀も後半になると市参事会は大商人層(都市貴族層)に独占されてしまった。彼らはギルド内の争いについても独自の裁判権をもち、他の市民から抜きん出た特別な社会的グループを形成していた。初期には市参事会に加わることの出来た手工業者層も、一三世紀後半にはそこから排除され、市内における富者=豪族の支配は確立した。一二七七年における都市法の確立と市制の整備という法制史的事実の背後には、このような社会的格差の増大があったのである。都市成立史料集などをみると、ハーメルンについては一二七七年の特許状が必ずあげられている。だがこうした市制整備の過程とは、初期の雑多な階層の出身者たちが強固な律院支配の下で、市参事会員資格を共有しながら共に闘った、あの生き生きとしたエネルギーに溢れた社会が硬化し、桎梏《しつこく》化してゆくという過程でもあった。 〈子供たち一三〇人の失踪〉が起った一二八四年頃は、ハーメルンでは基本的には、以上のように特徴づけることが出来る時代であった。ではリューネブルク手書本の書かれたと推定される一四三〇〜五〇年頃はどのような時代であったか。以上の論点との関連からひとつの事実だけをここでは指摘しておきたい。  他の都市と同様にハーメルンにおいても、一四世紀末には富裕化し強力となった手工業者とツンフトは市政を支配していた豪族と闘い、再び手工業者ツンフトも市参事会に代表を送ることが出来るようになった。もとよりその経過は簡単ではなく、早くも一四〇〇年頃には豪族層の巻返しが起り、手工業者の四議席が失われ、豪族化した商人層は再びその支配を再建した。しかしその支配も長くはつづかず、一四一九〜二〇年には手工業者ツンフトによる革命が起って、大商人層の支配は再び崩されることになった。こうして大商人層は、一四三八年にはその独占的地位の象徴でもあったギルド内の独自の裁判権(ハンザグレーフ)を放棄しなければならなくなった。  一四二〇年以来市参事会構成員数は合せて四〇名となり、両参事会にそれぞれ一八名の手工業者代表が加わることになった。この時を頂点として、ハーメルンではそれ以後しばらくは大きな社会的な争いは起らなかった。いうならば社会秩序が安定化の方向を辿ることになったのである。  リューネブルク手書本が書かれた頃、その手書本の書き手の耳に入った〈子供たちの失踪〉の伝説はこのような状況のなかに身をおいていた庶民が互いに語り合い、伝えていったものと考えられる。社会的対立がどのような形にせよ安定化した時、すでに過去となったその対立抗争のなかにおける犠牲者たちに対する想い出が語られ、鎮魂の営みが行なわれたとしても少しも不思議ではない。 [#改ページ]  第三章 植民者の希望と現実  東ドイツ植民者の心情[#「東ドイツ植民者の心情」はゴシック体]  ここで私たちはしばらくハーメルンの町から離れ、あたかも一二、三世紀のヨーロッパで起っていた注目すべきひとつの大きな出来事に目を向けよう。  中世社会というと、人はすぐに古い農村の生活を思い浮べるかもしれない。そこでは人々がひとつの村で生まれ、結婚し、子供をなし、そして先祖のそばに葬られる。そのような日常生活が何百年もくり返されている様子を目に浮べるだろう。たしかに基本的には中世社会における生活はそのような特徴をもっていた。しかし人間というものは単調な、しかし幸福な生活を絶えず送れるようには出来ていないらしい。一見単調にみえるひなびた農村の生活のなかにも、牛や馬の病気、家族の病気、作物の出来、不出来などがもたらす心痛の種がつきないように、中世ヨーロッパの農村においても人々の生活はそれほど単調ではなかった。農業は都会人には想像もつかないほど、本来多忙な仕事なのである。人間の生活があるところ、避けることが出来ないこうした悩みの種の他に、人間集団のメカニズムがひき起す社会的な苦労も絶え間がなかった。  先祖代々くり返されてきた生活様式や仕来り、権利なども時には外からの強制的な力によって変えざるをえなくなることがある。その時、人々は思い惑い、不安につき動かされ、夜も眠れない日々を過す。先祖代々定額であった貢租が引き上げられたり、賦役の日数が増加したり、物価が高騰したりするような、具体的な日常生活に直接響いてくる圧力もたしかに大きな重圧となったに違いない。  しかし中世の農民はそのような事態の変化、負担の増大が生じたからといって、ただちに先祖伝来の土地を棄て、見知らぬ他国へ自分たちと子孫の生涯をあずけようとはしなかっただろう。人間は年をとればとるほど自分が育ってきた町や村、小川や森から切り離された生活には耐えられなくなり、植物のようにそれらの物のなかに埋まって暮すことを望むものである。  ところが一二、三世紀にはドイツ東部へ、さらに東欧へ、オランダや西部ドイツから大量の人口の移動がみられたのである。多くの農民や市民が「植民請負人」に誘われ、先祖伝来の村や町を離れ、東部の新しい土地で村や町を建設した。地味で目立たない動きではあったが、この頃としては極めて大規模な人間の移動の結果、ドイツはその国土を三分ノ一も拡大し、移動したドイツ人たちは現在のチェコ、ポーランド、ハンガリー、さらにウクライナにいたるまでその足跡を残している。中世東ドイツ植民運動と呼ばれるこの人口の大移動の原因を詳しく論ずる余裕はないが(筆者の別著『ドイツ中世後期の世界』未来社、一四八頁以下を参照されたい)、ここではこれらの人々がただ食えなくなったために、新開地で生活を開き、生き延びる可能性を求めたのだ、とみるこれまでの研究者の主張では解決出来ない部分が残ることだけを指摘しておこう。  日本の農村にみられた、いわゆる逃散とは質を異にする面がここには認められるのである。ひとつには移動距離の大きさである。西部ドイツから東ドイツへ、さらにポーランド、チェコ、ハンガリーへの道は、食いつめた人間が辿るにしてはあまりに長く厳しい。あとでみるハーメルンからトロッパウへの道は六〇〇キロもあった。しかも無事辿りついたとしてもそこにあるのは未開の原野である。移住者の多くは、したがってかなり余裕のある層であって、食いつめた人々ではなかったのである。彼らは十分な計画をもって三々五々村を離れ、東部のある地点に集合し、数年の免租期間を保証されて村や町の建設に携わったのである。最初の冬を切り抜けられるかどうかが勝負であったから、少なくとも最初の冬を過すことが出来るだけの資金は用意しなければならなかった。では今日、明日の生命の維持も危いほど食いつめたわけでもない人々がなぜ住みなれた村や町を離れていったのだろうか。  おそらくそれまでの自分たちの日常生活をつつみかつ支えてきた世界が変貌したことによるものであろう。人間はただ家があり、食物があり、自然環境があれば生きてゆけるというものではない。大切なのはそれらの物や自然、対象と自分との関係であり、それが世界をなしていた。中世農民にとってこの関係の世界は伝統によって作られており、かつてあったもの、それが良きものなのであった。  ところが一二、三世紀のヨーロッパはいわば激動の時代であった。各地に都市が簇生《ぞくせい》したことはすでに述べたが、商業の復活とともに村のなかにまで遠隔地貿易再開の影響は及びはじめていた。とりわけ、新しい形での領域支配体制が徐々に農村を包摂しつつあった。この領域支配は村の伝統的秩序を大きく変貌させてゆくことになった。先祖伝来の領主に代って、新参者が新しい領主として君臨するようになる。村のなかにおける階層秩序も変貌する。このような事態が村落のなかで肌に触れて感じられるようになったとき、「この村はもう俺の村ではない」と感ずるようになった農民が多数出たとしても不思議ではない。隷属民ではなく、自立した農業経営を営んでいた者ほどその思いは強かったことだろう。その思いに耐えられなくなった時、そして東部から勧誘を受け、そこではこれまでにない良い条件で土地が得られることが約束されているのをみた時、農民たちは先祖伝来の村を棄て旅立ってゆく。  しかし彼らは自分たちの先祖から自分たちに受け継がれてきた村を棄てたのではない。彼らは長紐靴《プントシユー》の裏にその故郷をつけて東部へ赴いたのである。彼らはかつて自分が生まれ育った村を東部に再建しようとする。彼らはほとんど例外なく、本国の村と同じ名前を新しい村につけ、旧い秩序をそのまま環境の異なる新しい土地で再現しようとする。東ドイツ植民運動とはそのような心情のなかで展開されたのである。  ハーメルンの子供たち一三〇人が失踪したのは一二八四年であった。そしてまた東ドイツ植民、それも農民の移住が最も盛んに行なわれたのがほぼこの頃であったから、これまでかなりの研究者が両者の関係に着目し、〈子供たちの失踪〉という謎の解明にのり出したのは不思議ではない。そうした試みはまず一九四三年にマルチン・ヴェーラーが行ない、一九四八年にはヴォルフガング・ヴァンによって緻密で魅力あふれる理論として提示されている。そして一九五五年以降は、ハンス・ドバーティンが家系学との関連で再び精力的にとりあげている。これらは「東ドイツ植民説」として一括して扱うことが出来るが、まずこれまでのところ最も包括的なヴァンの理論をみることにしよう。  失踪を目撃したリューデ氏の母[#「失踪を目撃したリューデ氏の母」はゴシック体]  ヴァンの出発点もリューネブルク手書本にあるが、この手書本の年代推定においてヴァンは独自の前提のうえに立っている。すでにみたようにこの手書本は、一三七〇年に死去したハインリッヒ・フォン・ヘルフォルトの『金の鎖(カテナ・アウレア)』の筆写本の最後の頁に書き込まれているものであり、その書体から一四三〇〜五〇年頃の記入とみられている。しかし書き手が「私はこのことを古い本でみた」と書いているところから、ヴァンはこの手書本の伝承には何か古い原本があったとみる。そしてそれは教会法的な意味での古い(アンティクア)という概念からみて、少なくとも筆写された時より六〇年以上古いものであったと推定し、一三七〇〜一三九〇年頃のものとみる。  さらにここに出てくるカルワリオという言葉が裁判・処刑場という意味で使われているのは、ノルマンディーの聖書学者ニコラウス・フォン・リール(一二七〇〜一三四〇)にはじまるものだとして、その著作『普遍的聖書註釈(ポスティラエ・ペルペトゥアエ)』が一三三〇年以来数多く筆写され、一四七二年以来ドイツで印刷された最初の聖書註釈ハンドブックとして普及していた事実を指摘している。こうしてこの伝説の原テキストが成立したのは、どんなに早くても一三三〇年以後とみているのである。  しかしラテン語のテキストで、イスタ・レペリ・イン・ウノ・アンティクオ・リブロ(私はこのことを一冊の古い本で見た)とある場合のイスタ(このこと)は、ヴァンが想像しているようにこの文章全体にかかるとみるよりも、そのすぐ前の文章、すなわち「ハーメルンでは子供たちの失踪の日から一年、二年……と年月を数えている」という文を受けていると考える方が無理がない。しかもそう考えた場合、この古い本がすでに前に触れたハーメルンの法書ドナであることはほぼ間違いがない。だから必ずしもリューネブルク手書本の書き手が、この伝説そのものを何らかの文書に基づいて、書き残したとは限らない。彼は自らその伝説が庶民の間で語りつがれたのを耳にした可能性もあり、実はその可能性の方が大きいのである。  当時の人々には文書はすべて手書きで伝えられ、一部限りのものであったし、ほとんどは修道院や市参事会堂の奥深く秘蔵されていたから、一般の人々の目にはほとんどふれることがなかった。リューネブルク手書本の書き手が現在まで発見されていない、伝説の書き留められた何らかの記録を読んだ可能性よりも、当時も一般庶民の間で語り伝えられていた口伝の伝説に基づいて書いた可能性の方が大きい、と私は思うのである。しかしこの点はそれほど決定的な問題ではない。なぜならヴァンが想定している『原本』が一三七〇〜九〇年代に成立したとすると、リューネブルク手書本の書き手がその『原本』から写したときに、一般に語りつがれていた伝説もそれと決定的に異なった内容ではなかったと考えられるからである。  それよりも問題なのは「院長、リューデ氏の母は子供らが出てゆくのを目撃した」という記述である。ドイツでは家系学が大変盛んでその成果を援用するとリューデ家は一二六七年から記録に登場し、一四〇五年に消滅している。そのなかで、院長ヨハンネス・デ・リューデという人は伯父(一三二四没)と甥(一三七八没)の二人しかいない。そして両者とも高齢で死んだことが解っている。この手書本の『原本』の書き手がヴァンのいうように一三七〇〜九〇年頃にこの文章を書いたとすると、その頃に生きていたのは甥のリューデ氏以外にはない。そしてその母親が一二八四年に若い娘として、〈子供たちの失踪〉を目撃した可能性はあることになる。書き手は院長リューデ氏を知っている人物らしくみえるところから、ヴァンの一三七〇〜九〇年原本成立説はさらに根拠を与えられることになる。  ところでリューデ氏の母は、ハーメルンの市参事会員ギゾ・ホゲールテ(一二八二〜九四在職)の娘とみられ、そこからリューネブルクの市長フリードリッヒ・ホゲールテ(一四三四没)と親類関係にあったとも考えられる。そうなるとリューネブルク手書本の書き手にとって、リューデ氏はまんざらまったく未知の人ではなかった可能性も残ることになる。かなり面倒な話に立入ってしまったが、こうした問題について異邦人の私たちは最終的な決め手を出す条件をもち合せていないから、このくらいにしておこう。いずれにせよこうした家系学による傍証の結果、リューデ氏の母親が〈子供たちの失踪〉を目撃した、という手書本の記述そのものが歴史的事実たりうることが明らかとなり、この手書本の重要性はいよいよ増大することになる。  ではこの手書本を材料としてヴァンはどのような解釈を企てたのだろうか。  植民請負人と集団結婚の背景[#「植民請負人と集団結婚の背景」はゴシック体]  ヴァンの理論の中心人物は〈笛吹き男〉である。一六世紀以降、伝説が変貌してゆくなかでは〈笛吹き男〉は悪魔的な存在として描かれるようになるし、事実中世においても〈笛吹き男〉は遍歴芸人として教会に入ることも許されず、いわば当時の社会全体から疎外され、祝祭日にのみ辛うじて登場を許された被差別民であった。彼らの服装もみすぼらしく、遠くからみてもすぐにそれとわかるいでたちであった。それなのにリューネブルク手書本において笛を吹きならし、子供たちを連れて出ていったとされている男は極めて上等の服を着ており、美しく皆感嘆したとある。〈笛吹き男〉は今述べたように社会的に容れられなかった者であったから、そのような存在が「美しい」とされたり、上等の服を着ているはずがない。当時の遍歴芸人(シュピールロイテ)は通常髪を短くしており、同時代の人々の評価で美しいという場合には肩までたれさがる長い髪が前提とされていた。  また当時の社会では各身分毎に着る服装の色に枠があり、農民も市民の大部分も常に灰色の服しか許されていなかった。ユダヤ人などは黄色の服しか着ることが出来なかった。また貴族ですら、一三世紀には赤、緑、青などの服は着なかった。〈笛吹き男〉の服は多色を用いた縞模様ときまっていたから、このような〈笛吹き男〉が、「極めて上等の服を着ていた」はずがない、とヴァンはみる。だからこれは通常の〈笛吹き男〉のイメージとはほど遠く、何らかの別の役割を担った人物であるという。  いずれにせよ、一二八四年頃、こうした地位にあった〈笛吹き男〉に何が出来たか、と問うならば「何もない」と答えるしかない。彼ら自身のイニシアティヴでは何も出来ず、ただ有力者の手助けとしてのみ、アクティヴな活動が出来たという。  では当時ハーメルンには〈笛吹き男〉を使いうるような有力者がいたのだろうか。ヴァンはそれを貴族や都市貴族などからなる企業家〔法的《デ・ユレ》な植民請負人《ロカトール》〕とみる。いうならば〈笛吹き男〉は事実上の植民請負人であり、彼が法的な植民請負人たる貴族のために、その個人的な魅力を通して若者たちに働きかけ、その貴族の植民領域であった遠くハンガリーの彼方、オルミュッツ司教ブルーノ・フォン・シャウムブルク(一二八一没)が開発した植民領へ連れていったのだという。〈笛吹き男〉はここでは背後に立っていた貴族の使者、宣伝員としての役割を果していた。  そしてこの両者は緊密な関係を結びながら、この事業を遂行したから、後に伝説が形成されてゆく過程でこの二つの人格がひとつになってゆき、すでに描写したような〈笛吹き男〉の服装や髪の、またその役割の矛盾した二重性を生み出したのだという。  この両者による植民勧誘の準備行為は、一二八四年六月二六日に青年男女六五組一三〇名が東部へ入植する前の集団結婚式において頂点に達する。中世においても集団結婚式は教会暦の特定の時期にしばしば行なわれた。市民の結婚式は通常三日かかるが、ハーメルンでは二日が普通であり、六月二四日のヨハネ祭の日にはじまった結婚式が翌二五日(日曜日)に終り、その翌日のヨハネとパウロの日に皆が出発したのである。 「ヨハネ祭」は、インド、ゲルマン、アーリア民族においては夏至の火の灯される日であり、その日にツンフトの加入、市民としての受容、結婚式等が一般に行なわれた。スウェーデンのいくつかの峡谷では、その年に結婚したすべての者の記念日をこの日としているところがある。結婚式をすませた若者たちは後に舞楽禁制となった通りをぬけて、〈笛吹き男〉を先頭として東門からコッペンへ向い、カルワリオのあたりで両親たちの視野から消え、はるかジーベンビュルゲンへの植民の旅にのぼった。いわば当時どこにでもみられた東部への移住のやや大規模な形のものでしかなかった、とヴァンは考えるのである。  この中世版集団結婚・集団就職が行なわれた背景として、ヴァンは当時のハーメルンにおける人口増加と土地不足に基づく社会的格差の増大をみている。  ハーメルン市の支配が及ぶ範囲はヴェーゼル両岸にまたがり、その面積はほぼ三〇〇〇ヘクタールに及んでいた。しかし今日においてもそのうちの三分ノ一は森林であり、土地は必ずしも十分ではなかった。すでにみたように一三世紀後半に都市の拡張が進められるが、一二五〇年頃にはほぼ今日の姿の区画をもった都市が最終的に出来上っている。しかし人口は一〇、一一世紀以来増加の一途を辿っていた。一二七七年にはそれに加えて外部からの移住が行なわれ、一二八〇年頃から再び市内に人口が急速に流入しつつあった。  ところでこれらの人口を賄うべきハーメルンの経済は、主として農業に依存する半農半商の形態で営まれていた。都市建設以前にはハーメルンの耕地に約四〇〇の家計が数えられたが、一二五〇年にはその数は七〇〇〜八〇〇と増大している。それに対して、ハーメルンの全耕地面積は一八〇〇〜一九〇〇ヘクタールの耕地と菜園で、残りは共有地であった。したがって一家庭当り平均一・五ヘクタール以下の耕地しかもてなかったことになる。しかも実際のところは、農民と農耕を営む市民の僅かな部分のみが収穫の多い耕地を占拠し、残りの大部分は狭い痩せ地で満足させられるかそれすらもっていなかった。土地不足からこの計画は実現しなかったが、一二六〇年にもハーメルンのマルク内に新しい村を建設する可能性が論じられていることからみても、土地への需要は切実だったとみられる。  ハーメルンの商人や高利貸はすでにみたように独自の身分層を形成しており、彼らはハーメルン周辺の森林をすべて所有し、木の下枝を切りとって薪にする権利をもっていた。しかも彼らはハーメルン周辺の土地も買い取ってゆき、数多くの農民が土地を失なって市内に追いやられたのである。  これらの市民権をもたない住民には都市内で十分に暮してゆける条件がなかった。手工業、小売商についてもすでにみたように前者には一二七七年の段階で、パン屋、肉屋、織匠の三ツンフトしかなく、その数が増大するのはようやく一四世紀中葉以降なのである。その頃にはツンフト数は二〇に達している。その頃になってようやく都市内の農民やその子弟は手工業や小売商を営むようになり、農業は僕婢に委ねるというケースも出てくるが、一三世紀末の段階では、人口増加にみあうだけの経済的活動の可能性はハーメルンにはなかったとみられているのである。  こうした事実の背景にはハーメルンの慢性的な土地不足があった。しかもここには従属都市(フォーアシュタット)はなかった。一三一七年には当時としては破格の値(牛四〇〇頭の値)で、二ヘクタールのヴェーゼル河の島を買い取っているが、こうしたことはこの町の開発がギリギリまで来ていたことを示している。すなわちハーメルンの下層民の子弟には、もはや新家庭をもっても独立した家計を営む可能性がなかったことになるのである。こうした状況のところに、言葉たくみに東部において独立した家庭を営み、広い土地が手に入る可能性を説いてまわる男が現われたのである。  しかもすでにかなり以前から、「乳と蜜の流れるカナンの地」にたとえられる東方への移住の話は、ハーメルンでも人々の間で折にふれて噂となって語られていた。結婚年齢にさしかかりながら、土地、財産の不足のために一人前の家庭を営む可能性を奪われた若者たちがその話に耳を傾けたとしても不思議はない、という。 [#挿絵(img/fig20.jpg)]  ところでもしその通りだとしたなら、この若者たちの移住は町全体にとってもひとつの大きな出来事であったはずだし、市参事会も何らかの形で関係をもっていたに違いない。それならなぜ若者たちは市参事会堂の前から出発してまっすぐ東門を抜けてゆかず、狭い舞楽禁制《ブンゲローゼ》通りを通って東門へ行ったのだろうか。この問題もヴァンは、市内における大市民と小市民の格差の地域的分布から説明しようとする。  ヴァンによると、当時ハーメルン市内にあった約六〇〇の屋敷地のうち二八五〜二九三は大市民に、三〇八〜三一三は小市民のものとなっていた。すでにハーメルン市内の散策の際にみたように、大市民の家は小市民のそれと比べてはるかに大きく、醸造権をもち、この時代にすでにヴェーゼル地方ではめずらしい石造りであった。いわゆるヴェーゼル・ルネッサンスの典型的建築を、今日でもわれわれはこれらかつての大市民の家々にみることが出来る。小市民の家はニーダーザクセン風の質素な木組み白壁造で、醸造権をもたなかった。そしてわれわれがみたように、大市民の家はプフェールデマルクトやそこから出ているベッカー通りやオスター通りに集まっていた。  それと社会的な意味で対照的なのが南東のノイエ・マルクトのあたりであり、そこに小市民、手工業者層が主として住んでいた。土地不足や貧困の故に外部へ移住する必要があったとすれば、そのような人間は間違いなくこのあたりに住んでいたのであり、その中心にあるノイエ・マルクト(昔は今より広かった)から道は舞楽禁制通りを通って、最短距離で東門と結ばれている。こうしてヴァンの推定によれば、若者たちは彼らの生家のあるノイエ・マルクトに集合し、そこからまっすぐ東門に向ったということになる。  それでは子供たちが消えたカルワリオあるいはコッペンとは何処であったか。  一四六〇年以来ヨーロッパのいたるところで、エルサレムに倣《なら》って十字架の道行き(キリストの受難の道)をもったカルワリオ小礼拝堂が建てられていた。ハーメルンでも一四九四年に何人かの市民がミンデン司教等の同意を得て、クライン・アフェルデ村にカルワリオ小礼拝堂を建てた。これはちょうど都市の古い境界線上にあった。この小礼拝堂は後に移されたが、前述のニコラウス・フォン・リールの時代からこの名称は裁判を行なう場所、刑場として誤解されている。一四九四年にハーメルンの市民は一二八四年の事件を念頭において、まさに鎮魂の行為として子供たちが消えたこの地に、カルワリオ小礼拝堂を建てたのだという。  子供たちはヴァンによるとこの地(市の境界)で両親に別れを告げて、遠い旅にのぼったことになるのだが、この地はまたコッペンなる丘の下にあった。この高さ八五メートルにみたない低い丘は、一八七一年の鉄道建設によって最終的に崩されてしまったが、一六、七世紀にもこの土地はコッペンと呼ばれていた。今でもバイエルンなどのカトリックの地方では、畑や村の境界に十字架がポツンと立っているのがみられる。これはもちろん、畑仕事をしている人々にとっては守護の像でもあるが、村を出て遠く修行や行商の旅にのぼってゆく者にとっては、村と別れを告げる最後の絆であったし、長く故郷を離れていた者が久しぶりに故郷の村に触れる最初のしるしでもあった。ハーメルンでもまさにこの町の境界で、両親は子供たちを見知らぬ植民請負人の手に委ねたのだという。  子供たちは何処へ行ったのか?[#「子供たちは何処へ行ったのか?」はゴシック体]  そこで最後に多くの人々が関心を抱いた問、子供たちは何処へ行ったのか、が問題になる。子供たちが辿った道は、東門を出てまっすぐにヒルデスハイムからマグデブルクへ通じている。その間の都市に何らかの事故・事件はこの頃起っていないし、大量死亡の話も聞かれていない。そうなると当時のドイツの諸状況から判断して、東方植民との関連が誰の目にも浮ぶのは当然のことである。ところが何処へ子供たちが行ったのか、という疑問になると子供たちの名前すら一人として知られていないところから、まったく何の手がかりもなく、雲をつかむような問題なのである。ところがヴァンはあとで述べるような、切実な内的衝動があったからなのだが、この手がかりがまったくないという状況こそがまさに手がかりなのだ、と考える。  当時の人々の地理的世界像はまったく貧弱なものであって、特に農村においては故郷の村の外に何があるのかまったく知らずに一生を終る人間は稀ではなかった。だから子供たちの行先が告げられていたとしても、その土地がハーメルンの一般庶民には未知の土地であり、特にその土地がどの国に属するのか当時は明らかでなかった場合には、名もない国として記憶のなかからすぐに消えてしまったであろうという。  当時一般に律院などで教育用に使われていた地図はエルサレムを中心とし、東が上にあるような、伝説などに基づいた極めて不正確なものであった。しかしハーメルンにはヴェーゼル全域から北海をも活動領域にもつ商人層がいたし、当時の騎士階級にもいわゆる「机上の学問」を蔑視してイタリア、聖地、東方への冒険旅行の経験をもつ者が少なくなかったから、市民の地理的世界像は農村におけるほど貧弱ではなかった。  一二八四年にリューネブルガーハイデのベネディクト修道院で、一二・七四平方メートルもある大きな地図が描かれた(一九四三年の爆撃で焼失してしまった)。この地図は一三世紀末にハーメルンの地理教育にも大きな基準を与えたと考えられる。エプストルフの世界地図、と呼ばれるこの大地図はローマの地図を手本としたもので、それより五〇年前にノーフォーク出身の地理学者バルトロメウス・アングリクスがマグデブルクにいたときに描いた地図と比べると、東部に関する知識が著しく増大しているといわれる。特にバルト海沿岸やハンザの影響力が及ぶノヴゴロドからドニエプルまで描かれている。またドーナウ河沿いの地方が、ハンガリーの中心部からバルカン半島まで及び、その他リトゥアニア、モスクワ、ウクライナ、マイセン、ブランデンブルクも詳しく描かれている。  しかしこの地図で以上の地域と比較して、詳しく描かれていない土地がある。それはメーレン、北ハンガリー、ポーランドである。大切なのは何が記載されていないかだけでなく、何が間違って記されているかだとヴァンはいう。メーレンに関する記載は極めて不正確、不十分であり、北ハンガリーも空白地帯となっており、ポーランドについてもワイクゼル、オーデル両河しか記されていない。こうしてこれらの地域が一三世紀末以降のハーメルンの市民にとっても、その世界像のなかにポジティヴな位置を占めていなかったと推定されるのである。そしてまさにそれ故にこれらの空白地帯が、ヴァンにとって何かの秘密を隠した土地として映ってきたのである。  こうして様々な地域を論理的に消去していった結果、ハーメルンの子供たちの目的地として浮び上ってくるのがシュレージエンの高地とクラクフ、西ガリチアの北部ならびにメーレン北部とハンガリー南部(スロヴァキアとチップス)といったヨーロッパの主要水脈の分水嶺に当る地帯の南部である。  しかし単に当時のハーメルンの庶民に[#「庶民に」に傍点]知られていなかったというだけでは、子供たちの目的地であったということの論証にはとてもならない。そこでヴァンはこれまでの議論とは逆の論法になるのだが、これらの地域のうちで、すでにハーメルン周辺と密接な関係をもっており、ハーメルンの子供たち(実は成人した若者たち)が植民者としてはるばる訪れても不思議のない土地を探しあてなければならず、同時にその関係を論証しなければならない。ところが実はその論証の方は比較的簡単に出来るのである。  メーレン北部のトロッパウを中心とするこの地域は、一二四一年のモンゴル軍の侵入によってヨーロッパで最も大きな被害を受けた土地であった。国王ヴェンツェル(一二七八〜一三〇五)の時代に、この地方にはヴェンツェルの弟ニコラウスがトロッパウ公として統治していた。  一二七八年、マルヒフェルトのデュルンクルートでの戦で、ハプスブルク家のルードルフがベーメンのオタカル二世を破ってのち、ニコラウスは一三〇六年に西ヨーロッパに向けて注目すべき呼びかけを行なっている。それはちょうど一一四三年にホルシュタインの開発者として名高いアードルフ伯がフランドル、ホラント、ユトレヒト、ヴェストファーレン、フリーゼン等にあてて呼びかけたように、西ヨーロッパの人々に植民者ならびに都市建設者として入植するように招いたのである。特に一二八四年のトロッパウの講和によって、一二七六年から一二七八年にかけて途絶えていたこの地域の開発計画が再開された。それ以前にも以後にも、プラハの宮廷がこの時ほどドイツに顔を向けていたことはなかったといわれる。この呼びかけはミンネジンガー(吟遊詩人)を通して行なわれていたのである。  こうして、かつてメーレンの一部をなしていたオルミュッツ司教区が特に強く浮び上ってくる。しかもハーメルンから南東はるか六〇〇キロも離れた僻遠の地である、メーレンのオルミュッツとハーメルンを結ぶ人物も存在していたことが明らかとなる。  その人物はハーメルンから北約一五キロのところにある、ヴェーゼル河沿いのシャウムブルク出身のオルミュッツ司教ブルーノである。ブルーノは一二〇五年にシャウムブルク城に生まれ、一二四五年にオルミュッツ司教となり、一二八一年に同地に骨を埋めた。ブルーノはオルミュッツに赴任してからモンゴルの脅威に備えて、ここに根本的に新しい軍事的知行制度を置こうとした。この組織は一四世紀初頭においてもまだ三二五名の知行保持者を数え、その他に十分の装備と従者をしたがえた五〇〇名〜六〇〇名の騎士を供給することが出来たという。この新しい防衛組織には大領邦君主も加わっていたから、一旦事があれば、司教は何千名もの騎士と歩兵を使うことが出来た。これは同時代の中程度の帝国諸侯とほぼ同規模であり、事実一四一九〜一四三四年のフス戦争の際には、ズデーテン地方内部としては唯一の軍事組織としてフス派と戦ったといわれる。  こうした軍事、教会組織の経済的基盤としてブルーノは強力な植民・開発事業を行なった。その結果司教区はブルーノが赴任したときには二〇〇ヶ村に分散した、せいぜい一五〇〇人の賦役義務を負った賃租農民を擁していたにすぎなかったが、一三世紀末には四〇〇ヶ村以上に、少なくとも一万五〇〇〇人の人格的に自由な賃租農民がいた。今日明らかになっている限りで、ブルーノはメーレンとシュレージエンで二〇〇ヶ村の新しい植民村を置き、三〇の都市と市場定住地を開いている。そのために、当時としては驚くべき二万五〇〇〇人にのぼる移住者を呼びよせたのである。  ブルーノとその後継者テオドリッヒは、一二五〇〜一三〇〇年の間に三〇〇人以上にのぼる植民請負人《ロカトール》を西欧世界に送った。植民請負人は西ヨーロッパの各地で移住する農民を募り、村が建設されるとその村の初代村長になるのが常であった。移住農民は遠路苦労を重ねながら三々五々東部の集結地点に集まり、そこで、ヴァンによれば最初の種まき用の種と二、三頭の家畜を無償で受けとった。東部では西部と比べて貨幣の購買力は高かったから、用意する資金はそれほど多くなくても足りたという。さらに土地代は内金として企業家に支払われていたので、持ってくるものは僅かの家具といくつかの道具ですんだ。また新開墾地は通常数年以上免租であったから、こうした好条件にひかれて多くの農民が請負人の言葉を信じて東部にやってきたのだという。  これらの移住者についてヴァンは、オルミュッツ司教区に残された植民請負証文の分析を通して、一五〇人以上のドイツ人貴族の従者がいたこと、さらにそれらの三分ノ二はヴェーゼル河沿いの地域出身か、この地域と何らかの姻戚関係をもった者であることをつきとめたのである。ヴァンはヴェーゼルベルクラント出身と思われる者の名前を多数列挙している。その他低地ドイツの地名と対応する村や地名が多数論証のために示されている。  植民請負人同士の競争は当然激しかったが、オルミュッツと何らかの関係にあり、郷土出身のお偉方が開発したゆかりの土地から来た植民請負人の仕事は、何の縁故もない場所よりもやり易かったであろう。オルミュッツの植民請負人の活動がブルーノの出身地ヴェーゼルベルクラントに集中したのは、当然のことであったとみられる。しかもシャウムブルク伯領はハーメルンの市領域の北部に接しており、ヴァンによると、ハーメルンはこの地域では最も人口の多いところであったから、こうした両者の関係を考えても、オルミュッツが人口不足で悩んでいたときに、この関係を利用しなかったと考えることは不自然だとみる。  実にブルーノの開墾地域における約一万のドイツ人家族名のうち約一〇〇〇は低地ドイツ出身であり、そのうち三〇〇以上がハーメルン近郊の出とみられるという。  こうした集落定住史と地名の分析をオルミュッツ地域について徹底的に行なったヴァンは、ついに「ハーメルンの子供たちの行きついた村」を発見した。それは今では森となってしまった、かつてのメーレンの村ハムリンゴウ Hamlingow(Hamakow とのちに呼ばれた)である。この村はメーレンの首都ブリュンの北東約二〇キロのところにあり、主としてバイエルン、東フランケン、シュヴァーベン、スイス、ニーダーザクセンからの移住者によって開発された土地にあった。この村は約三〇フーフェ〔四〜八頭だての牛の有輪|犂《すき》で、ほぼ午前中に鋤耕される面積を一モルゲンとし、三〇モルゲン(エーカー)を一フーフェという。東欧では西欧よりも面積は広い。一フーフェにはその他屋敷地、菜園地、共有地の利用権も含まれ、そのすべてを含めて標準農とみられた〕をもち、住民は農業の他漁業、粉ひき、炭焼き、養蜂などを営み、のちには葡萄栽培も行なわれていた。このあたりはヴェーゼル流域のシャウムブルク・ホルシュタインを思わせる名前のホルシュタイン城を中心にした支配領であり、その所有者はオルミュッツ司教の封臣であった。さらにこの村のそばのブルーノには、一二四九年に司教ブルーノに仕えていたシュタンゲ家の所領があった。このシュタンゲ家はハーメルンのフロレヴセン家と姻戚関係にあり、のちにプロイセンで今日までつづく家柄を残すことになる。東ドイツ植民期の典型的な貴族移住者として辣腕をふるったシュタンゲが、ここでも移住・開拓による村づくりにフロレヴセン家を含む氏族の全力を投入したことは十分に考えられることである(シュタンゲ家の植民については拙著『ドイツ中世後期の世界』未来社一四二頁以下を参照されたい)。  ヴァンはこの他、方言等の残存を傍証として、この村がハーメルンの子供たちの目的地であり、到達地であったと推定しているのである。 [#挿絵(img/fig21.jpg)]  そこで最後に、この事件が一二、三世紀に他の多くの西欧の町や村でも演じられた、東ドイツ植民運動の一齣にすぎなかったとしたら、なぜこのハーメルンの町の話だけが伝説として残り、世界中に広まったのか、という問題に答えなければならないことになる。  ヴァンによれば当時における一三〇人の若者の離脱は、近代のハーメルンなら二〇〇〇〜二五〇〇人、ハノーヴァーなら一万〜二万人の青年が突然消えてしまうのに相当するほどの比重を占めていた。通常この時代には植民請負人の誘いを受けて、三々五々と農民や市民が浸み出るようにして西欧の町や村から出発し、目立たないうちに東の集結地点に集まる、という方法がとられていた。この植民によって人口増の圧力も僅かずつではあるが緩和されていた。さもなければ飢え、病気その他の事故による大量死亡という形で解決されていたのである。  一人の植民請負人は通常五〇〜六〇人を連れてゆくのが普通である。ひとつの町や村から一三〇人もの人々を連れ出すということは極めて稀なことであった。しかしヴァンによればハーメルンにおける強い人口増の圧力が、オルミュッツとハーメルンとの特殊な人的関係に噴出口を見出し、このようにドラスティックな形で例外的に急激な人口の減少がはかられたのだという。残された両親や縁者の感情はいつでもどこでも同じであった。だがこの町では同世代の層が大量に流出したため、その嘆きは交通・通信ともに極めて不自由な遠方の地へ旅立った子供たちの安否を気づかう、残された者同士の間にくり返し語られ、語りつがれ、両親や直接の体験者が死に絶えたのち、伝説と化していったのだという。市長や参事会員は実際のところ大都市貴族の手先でしかなかったが、市の経済にとって致命的な労働力の喪失をもたらす、この子供たちの東方移住を妨げることが出来なかった。もしそうしたら流血の抵抗が起っただろうという。文書の読み書きが出来たのは彼らのみだったから、こうした人口流出が二度と起らないようにその噂を封じようとして、公文書にそうした移住を記録しなかった。こうした処置が逆にこの話を伝説に転化させる結果を招いたのだという。  さらに伝説成立にとって決定的なのは、ハーメルン市内の人口事情であったとみられる。一三二五年にはハーメルンの出生数はすでに減少をみせ、一三八一年にははじめてノイエ・マルクト(子供たちが集合した場所)に荒廃した家が生ずる。一三八八年には農業労働力の不足が顕著となった。一三四七年以降くり返しおそったペストによって、一四世紀を通して人口減少は著しく、一四八六年にはハーメルン市の村はすべて廃村となり、森林に覆われていたという。まさにこうした一四、五世紀における人口減少傾向のなかで、かつての一二八四年における多数の若者の不自然な減少(一種の棄民)が痛みとして回想され、あらたに〈笛吹き男伝説〉の形成を促した、とみられる。  ヴァン理論の欠陥と魅力[#「ヴァン理論の欠陥と魅力」はゴシック体]  ヴァンの理論をかなり詳しく説明してきたが、この魅力あふれる理論にも大きな欠陥がある。そのひとつは東ドイツへの植民は西・中央ドイツの多くの村や町でも行なわれていたものであるのに、なぜハーメルンではこのようなドラスティックな形で行なわれねばならなかったのか、という点の論証が不十分な点である。この時代の人口増は一般的に指摘されている。しかしハーメルンだけがとびぬけて激しい人口増に悩まされていたわけではないのである。しかも一三〇人の同世代の若年労働力の流出は、人口二〇〇〇人の町の経済にとっては致命的な損失であったことは誰の目にも明らかなことなのである。  たしかにトロッパウの周辺にドイツ農民は移住している。しかし、ハンス・ショルツがいうように、二〇〇ヶ村と三〇都市を建設した司教ブルーノほどの人間が自分の出身地で〈笛吹き男〉、すなわち植民請負人を使ってコソコソと奇妙な方法で、若者を誘い出す必要があったとは考えられない。さらにまた子供たちの未来が明るいものであったなら、そして当時「乳と蜜の流れるカナン」にたとえられて宣伝された東部への移住であったとしたら、この出来事は、のちになって、その昔希望のもてない町を離れて新天地へ旅立っていった勇気ある若者たちの話として伝えられたことであろう。後世のハーメルンの若者も狭い町を離れて、大都会やアメリカへ自分の運命を開拓しに出かけようとするとき、どこかでこの昔話を思い出していたことだろう。  しかしこの話にはどこかに不幸な結末を暗示させる暗さがつきまとっている。そして何よりも、移住した若者たちと故郷との間に何の連絡もなかったはずがない。元来ヴェーゼル地方とオルミュッツとの間に密接な関係があったのならなおさらのことである。いわんやハーメルンの東方六〇〇キロのトロッパウまで土地を求めて赴いた農民の子弟が、すでに苗字をもっていたというのも十分に納得のゆくことではない。  ヴァンの理論にはこの他にもいろいろな疑問を出すことが出来る。例えば舞楽禁制通りから出発した、という点の説明にも無理がある。結婚式ののちの出発なら、マルクト教会の前のプフェールデマルクトからの出発でなければならなかったはずであり、何よりもすでにみたようにリューネブルク手書本の『原本』が書かれた時代を一三七〇〜九〇年代とする論拠そのものにも難点がある。また東ドイツ植民への参加という、当時の人々にとっては別に不思議でもない山来事が「伝説」に転化してゆく過程の説明がまったく不十分である。体験者が死に絶えたからといって、原因も目的地もはっきりしていた出来事が目的地も、原因も謎の伝説に転化してしまうはずがないからである。時がたつにつれ原因や目的地が変ってしまうことはよくあることだろうが、すべてが謎であった、という形で伝承されることはまずないだろう。  このようにヴァン説には疑問点が多いのだが、それにもかかわらずこの説は〈笛吹き男伝説〉研究史のなかでの白眉と私は考える。なぜなら論理的な弱点を越えたところで、この理論は人間の心に訴えるものをもっているからである。私の考えでは、下層民の子弟の集団結婚式も集団移住もこの伝説とは関係のないことだろう。しかしこの理論を構成する一齣一齣は、それぞれ人間の心にあるイメージを喚起する力をもっているのであって、この伝説には関係のないところで「人間の生涯」に触れてくるからである。誤った理論でも生命力をもつことがある。その生命力はどこにあったのだろうか。ヴァンがこの大きな研究のなかで探し求めたのは〈ハーメルンの子供たち〉の行先ではないのである。  たしかにヴァンは、この研究の大部分を、子供たちの目的地とされるメーレンのオルミュッツ地方におけるハーメルンの子供たちの痕跡の探求にあてている。しかしヴァンは子供たちの痕跡をハーメルンの町の側から探し求めていたのではなく、メーレンのブリュン生まれのいわゆるズデーテンドイツ人として、第二次大戦後に、故郷もまた財産もすべて捨てて西ドイツに強制送還された引揚者として、逆にブリュンから西ドイツへの絆を探し求めたからなのである。いわばヴァン自身が現代における〈ハーメルンの子供たち〉の一人であり、その子供は失われた故郷との絆を過去の伝説のなかに求めるべく、青春の情熱のすべてをそこに投げ込んだのである。  ヴァンの両親はかつてオーストリア領だったシュレージエンの出身で、縁者の多くは東ドイツから来ている。ヴァンに限らず東部のドイツ人の先祖の多くは、遡れば東ドイツ植民期に植民請負人に率いられて故郷の町や村を離れて来た人々なのである。  こうみてくるとヴァンにとっては、一二八四年の〈ハーメルンの笛吹き男と子供たちの失踪〉の事件は歴史的事実でなければならない。しかしヴァンの望郷の念は西ドイツに対してではなく、メーレンのブリュンに向けられている限りで、もはや幻でしかない。ヴァンの背後には同じ運命にあった、数百万人のドイツ人の嘆きと希望がある。ヴァンも含めた彼らの嘆きや希望は過去を現在のものとし、伝説を歴史的事実とし、現在を夢のなかに流れ込ませる。そしてこの「伝説」は彼らの現在の「世界」との関係の絆ともなる。その限りでこれはやはり「学問」なのである。ヴァンの理論のもつ魅力もひとえにそこにあるのだろう。  ドバーティンの植民遭難説[#「ドバーティンの植民遭難説」はゴシック体]  同じく東ドイツ植民説に立ちながらも、まったく異なった雰囲気をもっているのがハンス・ドバーティンの植民遭難説である。彼はヴァン説への批判からはじめる。ドバーティンはこの伝説がもつ暗さからみて、子供たちの運命が不幸なものであったに違いないという推測から、子供たち(実は成人した若者たち)が東ドイツへ植民に出かける途中どこかで事故にあい、遭難したに違いないと考える。この可能性を論証しようとする彼の方法は徹頭徹尾、錯綜した家系学に基づいている。 [#挿絵(img/fig22.jpg)]  この論証の出発点は、最も古いとされるマルクト教会のガラス絵の模写にある。このガラス絵は、一五九二年にメルスペルグの書物『旅の年代記』の挿絵とするために模写されて残っているが、そこには〈笛吹き男〉や子供たちの他に薔薇が三本、鹿が三頭、鶴一羽が描かれている。さらに〈笛吹き男〉の着ている服が赤白青黄の四色からなりたっていることなどから、この男はこのような図案と色の紋章をもった貴族に違いないとみる。家系学や紋章学を駆使してそのような紋章をもつ貴族を探した結果、そこに描かれた〈笛吹き男〉をドバーティンはニコラウス・フォン・シュピーゲルベルク伯と推定した。  ニコラウス・フォン・シュピーゲルベルク伯は一二八四年六月二六日に、一三〇人のハーメルン市民とともに、新しい土地を求めてポンメルン方面に向けてハーメルンを出発した。同年七月八日には弟のモーリッツ二世ならびにヘルマンとともにシュテティンに滞在、七月末には海路ドイツ騎士修道会館プロイセンに向けて、ハンザコッゲ船(一三世紀にハンザ商人が使用した帆船。長さ約二九メートル、幅七メートル、深さ三メートルで一本乃至三本マストをもち一四〇トンから三〇〇トンを積み、人員なら四〇〇名を乗せ、船員は約四〇人で動かした)で航海中遭難した、と推定されている。一人のヨハネ騎士修道会士が、七月二二日にリューゲンワルデのコッファーンでシュピーゲルベルク伯の船をみて以来消息が絶たれたというのである。  家系学に基づく論証とは、各地の文書の作成にあたって、証人として多数の人間が文書の末尾に記載されているのをその人間がそこに居たことの証拠とするものであって、その他に紋章学や姓名学などを援用しながら、当該人物の名が出てくる地点間を線で結び、そこに何らかの意味・つながりを見出そうとするものなのである。  ニコラウスはハーメルンの近くのポッペンブルク=シュピーゲルベルク伯領の出身で、父モーリッツ一世は一三世紀初頭にその領地を追われ、メクレンブルクに滞在していた。ニコラウスと三人の兄弟もメクレンブルクにいたと考えられるが、一二七七年には父とニコラウスとは、ハーメルンの近くの自分たちの出身地の隣にあるラウエンシュタインにおり、父はコッペンブリュッゲに六フーフェの土地を得ている。同じ年にニコラウスはリューネブルクの塩鉱を攻撃し、二人の市民を殺害したとして訴えられている。彼はこの時代の弱小貴族のひとつの典型でもあった。  一二八一年にもニコラウスはハーメルンの傍のヴンストルフにおり、その後一二八二、一二八三、一二八四年七月七日にポンメルン公ボギスラフのもとにいたことが明らかとなっている。  ボギスラフは一二八三年中頃からブランデンブルク辺境伯と激しい戦闘《フエーデ》をくり返していたから、ニコラウスはおそらくそこでボギスラフのために援助をしていたのだろう。彼はメクレンブルクにシュピーゲルベルク城を建設している。一二八四年七月八日にニコラウスと兄弟のモーリッツ二世、ならびにヘルマンがシュテティンにいたことまでは辿りうるが、それ以後ニコラウスはいかなる文書にも出てこない。しかし彼の兄弟はニーダーザクセンに戻った。一二八五年九月にモーリッツ二世はヒルデスハイム、一二八八年四月にはヘルマンとともにヴンストルフにおり、コッペンブリュッゲに住んでいたとみられる。  以上のデータの他に、一二八四年の直前にハーメルンの近くにいた伯は三名だけで、他の二人(アルベルト・フォン・シュヴァーレンベルクとオットー・フォン・エーフェルシュタイン)はそれ以後も名前が出てくるから問題とならず、そのとき以後消息の絶えたニコラウスが問題の人物ということになる。しかもニコラウスとその兄弟は、一三世紀初頭にポンメルン公のもとにいた唯一のドイツ人伯であったことからみて、故郷の領地を追われたニコラウスらにはポンメルンに入植する意図があったとみられる。  そのような例としては、他にもヒルデスハイムからプロイセンへ渡ったディートリッヒ・フォン・デペナウや、同じくヴェーゼル地方からオルミュッツへ、さらにプロイセンへ入植したディートリッヒ・シュタンゲなどがある。  こうしてニコラウスは一二八四年初頭に、弟ヘルマンをポンメルンに残してハーメルンに戻り、問題の日六月二六日に弟のモーリッツ二世とともに一三〇人のハーメルン市民を連れて、ポンメルンへ向ったと推定されているのである。ポンメルン公とブランデンブルク辺境伯との戦が国王ルードルフ・フォン・ハプスブルクの調停で一時休戦となり、ブランデンブルク経由の道が開かれているうちに、一挙に事を運ばなければならなかったのだと考えられている。  このような推定を支える事実としてドバーティンは、ハーメルン市参事会のメンバーが一二八四年から一二八八年までの間に大幅に減少している事実を指摘する。この期間に市参事会からは一一名のメンバーが退いているが、これは一二八二〜八四年の一名、一二八八〜九一年の四名と比べてもたしかに多い。一二八四年以降文書から名前が消えている市参事会員のうち八名は名前その他が解っており、みな青・壮年期の人々であったという。しかもその大部分は〈子供たちの失踪〉の三日前までは市参事会員だったのである。これらの事実からドバーティンは、名前の消えた市参事会員がニコラウス・フォン・シュピーゲルベルク伯とともに、ポンメルンをへてプロイセンへ向けて旅立った一三〇人の市民のなかに含まれていたと推定している。  ドバーティンはこうした関連のなかで、この〈笛吹き男伝説〉にあとからつけ加えられた〈鼠捕り男の復讐〉の問題を、騎士間の土地をめぐる市参事会との対立の結果として説明し、「戻ってきた盲目の子と唖の子」の話を、ニコラウスを探したあげくハーメルンに戻ったモーリッツ二世とヘルマンだとする説を立てている。  しかしあとで再び触れるように、鼠捕り男の話は一六世紀にはじめてつけ加えられたものであり、いずれも一六世紀のハーメルン市内の諸事情、特に市参事会と一般の庶民との対立との関連において論じなければならない問題である。同時代史料たる中世史料に基づいて論議する枠を越えているし、この伝説の背景ではなく、すでに変貌に関する問題になってしまう。  ドバーティンの家系学に基づく研究にもいくつかの重大な欠陥がある。ひとつはすべての関連が当該人物が特定時点、すなわち一二八四年に特定の場所、例えばハーメルンにいたかいなかったか、という形で証明されたことになっている点である。ニコラウス・フォン・シュピーゲルベルクがハーメルンの子供たち(実は市民)を連れ出した〈笛吹き男〉とみられる同時代史料に基づく根拠は、一二八四年以後のいかなる文書にもその名が出てこないことと、彼には東ドイツへ入植する意図があったということだけなのである。  マルクト教会のガラス絵は一六世紀の模写として残存しているだけであり、そこには鼠が描かれていることからみて、この模写の際にかなり手が加えられたと考えられ、そのすべてを同時代史料として扱うわけにはいかない。もしそこに描かれている男がシュピーゲルベルク伯だったとしたら、この伝説は一六世紀にすでに謎ではなくなっていたはずなのである。東ドイツへ入植する途中で遭難する例は少なくなかったとみられるから、ニコラウスの場合もそのように伝えられていたに違いない。  また八名の市参事会員の名前が一二八四年六月二三日の市の文書に出てくることから、その日に在職していたことは確かとしても、彼らが二六日に退職した証拠は直接・間接いずれも皆無であり、彼らが在職していないことを示す次の史料は一二八八年一二月一八日付の文書なのである。  この点と関連してドバーティンの説にはある評者から、市参事会員という地位にある者が危険で厳しい条件の東部へ赴くはずがないという批判が向けられた。それに対してドバーティンは、東ドイツ植民には貴族も参加しているという、それ自体としては正しい指摘を反論としている。しかし貴族が東部へ移住したのは本国における地位が危くなっていた時なのであり、それも例外的な出来事であった(これについては拙著『ドイツ中世後期の世界』参照)。だからこの頃のハーメルンにおける市参事会員の地位に、そのような問題があったかどうかを明らかにされねばならない。たしかに一三世紀末にはかつて市参事会員資格をもっていた手工業者が、そこから排除されてゆくという事態はあった。しかしドバーティンが明示しているのは有数な家柄の市参事会員であって、手工業者層とはいえない。またたとえ手工業者が市参事会に入っている場合でも、それはその組合内で最も豊かな者であった。  さらに決定的なのは子供たち pueri と母親の問題である。ドバーティンはこの言葉が町生まれの者という意味で使われていることを指摘するのみだが、市参事会員をも含む市民層の移住の場合、母親の嘆きは中世史料に描かれているような形で表現されたであろうか。この伝説の原型は、やはり子供を主人公として庶民の間で伝えられた伝説だったのではないだろうか。だからこそ正式の記録も残らず、ただ頁の余白に書き加えられてようやく後代に伝えられたのである。たとえ支配者間の争いがその背景にあったとしても、その被害者としての庶民の立場からその事件が観察され、語りつがれていったと考えられる。  ドバーティンの論証は人脈に関する豊富な知識にもかかわらず、個々の事実をつなぐ論理は極めて弱い。そこにはヴァンの研究のもつ幻想的な、読む者を思わずひき込んでしまうような魅力が欠けている。それはドバーティンの伝説研究の在り方からくるものなのである。  伝説とは本来庶民にとって自分たちの歴史そのものであり、その限りで事実から出発する。その点でメルヘンとは質を異にしており、「伝説は本来農民の歴史叙述である」(ゲオルク・グラーバー)といわれるゆえんである。そのはじめ単なる歴史的事実にすぎなかった出来事はいつか伝説に転化してゆく。そして伝説に転化した時、はじめの事実はそれを伝説として伝える庶民の思考世界の枠のなかにしっかりととらえられ、位置づけられてゆく。この過程で初発の伝説はひとつの型《パターン》のなかに鋳込まれてゆく。その過程こそが問題なのであって、こうして変貌に変貌を重ねてゆく伝説の、その時その時の型をそれぞれの時代における庶民の思考世界の次元をくぐり抜けて辿ってゆき、最初の事実に遭遇したとき、その伝説は解明されたことになるかもしれない。  しかしそれはなかなか難しい。解明しえたと思ったとき、気がついてみればわれわれがわれわれの時代環境のなかで、伝説の新しい型を「学問」という形で形成していることになるのかもしれないからである。伝説も庶民が世界と関係するその絆であるし、学問もわれわれが世界とかかわる関係の表現であって、そこには本質的な違いはないからである。ちょうどヴァンの研究が示しているように。  だがそれはそれでよいだろう。困るのはドバーティンのように伝説の形成と変貌の過程を自分の身でくぐり抜けようとせず、いきなり初発の事実を解明しようとする態度である。初発の事実そのものはなんの変哲もない出来事であったかもしれないのである。それほど大きな出来事でもないことが、その時々の人々の心のなかに深く刺さり、沈澱してゆくとき、それは伝説として語りつがれてゆく。  伝説というもののこのような性格を考えるとき、東ドイツ植民にこの伝説の歴史的背景をみようとする二つの学説から離れて、ふたたびハーメルンの市民たちのもとに戻らなければならない。私には東ドイツ植民のように、あらゆる意味で計画的に遂行された出来事がこの伝説の背景であったとはどうしても考えられないからである。 [#改ページ]  第四章 経済繁栄の蔭で  中世都市の下層民[#「中世都市の下層民」はゴシック体]  東ドイツ植民を伝説成立の歴史的背景だとする、ヴァンとドバーティンの二人の理論を検討した結果、いずれの理論もわれわれにとって満足のゆくものではないことが明らかとなった。しかし何百年も住みなれた故郷を離れて東ドイツへ人々が移住してゆかざるをえなくなった、この時代の社会的諸状況を無視することは出来ない。  すでにみたようなフルダ修道院とハーメルンの律院、ミンデン司教とヴェルフェン家等の間におけるハーメルン市の成立をめぐる争い、さらにエーフェルシュタイン家やシュピーゲルベルク伯などの争いの根底にあったのは、この時代における領域支配権の確立をめぐる争いであった。この頃にそれまでの錯綜した人的支配の関係は様々な争いを伴いながら整理され、一円的支配圏が成立しつつあった。これは通常「領域支配」ランデスヘルシャフトと呼ばれる。そこで成立した一円的な領域は現在のひとつの国家領域と同じような意味をもちつつあった。だから学者によっては、領域支配の成立が近代国家の出発点であったとみる者もいるほどである。  このような一円的支配権の確立が抵抗なしに進められるはずがない。領域支配が各地で貫徹してゆく際に旧来の地位を保持しえず、結局はそこから排除されてゆく土着の騎士や守護などの層があった。彼らはそうした身の危険を早くから察知し、農民の搾取を厳しく行ない、収益の増大をはかっていた。こうした危機感のなかで騎士間の私闘も激しく行なわれ、殺人は日常茶飯事となっていた。ニコラウス・フォン・シュピーゲルベルクによる、リューネブルクの塩鉱の襲撃を思い出せばよいだろう。  本国でその社会的地位を維持しえないとみきわめをつけた騎士も、その地位の維持と上昇を求めて東部の新天地に移住していった。ハーメルンが属していたミンデン司教区においても、守護職による農民の収奪はすでに一三世紀初頭から激しく行なわれ、司教からもしばしば苦情が出されている。このような農民収奪の結果、ミンデンの聖界所領の農民たちは貢租を払うことが出来なくなり、逃亡する例が後を絶たなかったという。農民の逃亡の目的地はどこでもまず近隣の都市であった。  しかし土地は狭隘で手工業もあまり発達していない都市に、多数の人間を養うゆとりはなかった。市内にこうした下層民があふれることは市内の社会的不安を増大せしめた。農村を逃亡して都市に流入してきた下層民の多くはすでにみたように市民権をとることが出来ず、したがって都市内に住みながら都市共同体から排除された被差別民の集団をなしていたからである。このような層が市内の人口のなかでかなりの比重を占めたらどうなるだろうか。このような市民権をもたない都市下層民の生活はどんな状態だったのだろうかと考えてみざるをえない。  しかしまさにこの下層民についてはこれまでの歴史学ではほとんど扱われなかったし、史料も極めて少なく、実態を描くにはハーメルンだけの史料では不十分である。そこでドイツ全域にわたって、下層民の生活の在り方を探るという方法をとらねばならない。  中世社会は周知の通り身分制社会であり、そこでは一般的にいって貴族に生まれた者は貴族として死に、乞食に生まれた者はまずたいていは乞食として死んだ。いうならば生得の身分・地位は金銭や財力では動かせない堅固なものであった。もっと正確にいえば、金銭は中世社会においてはまだ現在のように大きな社会的な魔力を発揮するまでにいたっていなかった。しかるに一二、三世紀にヨーロッパ各地に簇生《ぞくせい》した都市は、このような中世社会のなかに異なった生活様式をもち込んだ。中世都市の建設を進め、その中心的存在となったのはまさに商業によって富をなした商人階層だったからである。いうならば、中世都市は中世社会のなかではじめて富と財産がものをいった社会なのであった。そうはいっても中世都市を貫いていた法的原理も中世社会のそれと全面的に異質なものにはなりえず、身分制やそれに基づく道徳といった秩序は本質的には大差なかったから、中世都市のなかでは身分制原理と金銭・財力の原理との確執が絶えず、はためにはなかなか面白いみもの[#「みもの」に傍点]であった。しかしこの二つの原理が確執しあうとき、そのいずれの原理からもはみ出してしまう人々がいた。それが中世都市の下層民である。彼らは身分制原理が徐々に衰退してゆくなかで、少しずつ解放されてゆくが、その数倍の力で彼らを脅かし、虐げた金銭と財力の原理のもとで、圧殺されんばかりになってゆく。こうした彼らの状態は実に一九世紀中頃までつづくのである。 [#挿絵(img/fig23.jpg)]  ところで都市の下層民とは具体的にどのような人々のことをいうのだろうか。一般的にいえば、経済的に自立出来ず、都市内部で最も貧困な層を指す。だからその圧倒的部分を占めたのは市民権をもたない人々であったが、なかには市民権をもつ手工業者や没落した市民も含まれている。これらを分類すると、商業や手工業で働く職人《ゲゼル》、徒弟《レーアリング》、僕婢、賃金労働者、日傭い労働者、婦人、貧民、乞食、賤民等となる。これらの下層民が都市人口のどれほどの部分を占めていたかを推定することは大変難しい。「貧民が死ぬと、〔その人間についての〕すべては一緒に消えてしまう。生涯が暗かったように、死後も忘却のゆえに暗い」といわれるほどであった。死後に財産や伝記を残すのはいつの時代にも権力ある者であり、身ひとつをようやく支えて短い人生を、しかしかけがえのないはずの人生を送った貧民は、ある日倒れて貧民院へ送られ、名も知れぬまま葬られてしまう。  だが、例えばハイデルベルク大学のマシュケ教授のようなすぐれた学者は、あらゆる手段を講じてその数を推定しようとしている。マシュケ教授によると、一三八〇年にリューベックでは、下層民は人口の四二パーセントを占め、アウグスブルクでは人口の三分ノ二を占めていたという。こうした数字はもとより正確を期しがたいが、一般的にいって最小限各都市の人口の二割強がこうした下層民によって占められていたとみてよいだろう。  商人のもとで使い走りとして働いていた者は、こうした下層民のなかでは比較的恵まれていた。ケルンでは彼らは市民権をもっていたし、なかには営々として給料を積み立て、主人の商売に投資して財をなす者もいた。中世社会のなかで金儲けの唯一のチャンスであった商業に、なんらかの形で関係していたこのような層を除いて、手工業者の職人、徒弟や日傭い労働者の生活は惨めであった。ツンフトの人的構成は親方—職人—徒弟からなり、親方だけが組合の正式なメンバーであった。職人や徒弟の賃金は親方や市参事会によって定められ、経済的に完全に隷属していた。給料から食事代を引かれると、五、六割しか残らなかった例も報告されている。一五世紀末にニュールンベルクでは日傭いの建築労働者の日給は午前中に払うこととされていた。なぜなら昼食をとりに帰る時、給料をもっていって女房に渡すとそれで晩飯の仕度が出来たからである。  徒弟になる時に、すでに一種の保証金として親方に金を納めなければならなかった。リューネブルクでは靴屋の徒弟になるのに一二九二年に一二マルクを納めることになっているが、それは真面目に働いていれば二年後に返された。このように経済的に親方や市当局に隷属していただけでなく、様々な規則によっても彼らは縛られていた。徒弟は夜になると親方の家以外のところに泊まることを許されなかったし、徒弟である限り結婚も出来なかった。のちになると親方のポストは数的に限定されるようになるから、一生職人のままで過さねばならぬ人の数も多くなった。一五世紀末にエルフルトの大工の組合では九〇人の徒弟を採用したが、長い間の奉公の後、親方になったのはそのなかの一〇名だけであった。しかもその一〇番目の親方ですら、徒弟になって二八年目にやっと親方になったのである。こうした制度は極めて非人間的な束縛となっていた。もとより若者のことだから、規則を破って結婚する者も出てくる。するとまだ徒弟風情で結婚などするのは怠け者の証拠だとされ、親方になる道が遠のいてしまう。親方の息子でありさえすれば、親の七光で市民権を得て親方になる道も組合に加入する道も開かれていたが、とりたてていうべき縁故がないと、市民権を得て親方になるには大変な金が必要であった。一四四一年にバーゼルの市参事会は同市の組合加入金があまり高すぎて、このままではバーゼルに定住しようとする者がなくなってしまう、と訴えている。ツンフトに加入するには、教会にある組合の灯明への蝋、親方全員に何コースもの御馳走をする親方披露宴の費用、市民加盟金、規定された最小限の財産をもっていることの証明などが必要であり、その他独立した竈をもち、家をもっていなければならなかった。一般には親方になるには、マイスターシュトックという資格判定用の作品を出して親方たる資格を得るといわれているが、それはしばしばあとで提出してもよいことになっていた。いつの世でも、仕事の内容よりも、その人間がその社会・グループのなかで既存の秩序を守りうるかどうかが何よりも重視されていたのである。  こうして七光もなく金もない大多数の職人や徒弟は、社会的に上昇する望みを絶たれ、飲食と賭事に生甲斐を見出すほかなくなり、着ているものまで賭けてしまう例も少なくなかったといわれる。しかしこのようななかにあっても爪に火をともすようにして給料をため、仲間が賭事をしていてもそれに加わらず、いわば義理も人情も欠いて小金をためた者もいた。こうした人間は親方の材料をこっそり使い込んで作品をつくり、それを闇で売っては小金を貯え、社会的上昇のきっかけをつかんだ。さらに要領の良い連中は親方の娘を狙った。親方の娘と結婚すれば無料で市民権もツンフト加入権も手に入ったからである。こうしてかなりの職人がこの安易な道に走ると、当然親方の娘が足りなくなる。そうなると今度は未亡人が対象となった。「親方の後家さんの手をとれば仕事場も手に入る」といわれた。マシュケ教授の調査によると一四世紀にはこのような例が極めて多い。一三五八年から一四〇〇年の間に、金を払わずに市民権を手に入れた者の八五・五パーセントはこのような結婚によるものであったという。 [#挿絵(img/fig24.jpg)]  僕婢といわれる階層はこのような徒弟たちよりももっと悪い状態にあった。主人のもとで働き、そこで食べさせてもらっていた他、僅かな給金を受けたが、独身の間はそれでもまだよかった。これらの層が一定の年齢に達し、独立した家計をもとうとすると、彼らは市内でも最も貧しい階層に加わることになった。特に婦人で子供をかかえている場合は悲惨であった。あちこちの商人や手工業者の補助労働や使い走り、手伝いなどをしてようやく家計を支えたが、ほとんど他人の援助がなければ生きてゆけない状態であった。いわゆる下層民のなかではこうした婦人が占める割合が最も多かった。  賤民=名誉をもたない者たち[#「賤民=名誉をもたない者たち」はゴシック体]  こうした下層民のなかでも最も蔑視されていたのが賤民層だった。賤民とは|名誉をもたない《ウンエールリツヒ》者であり、刑吏、墓掘り人、皮剥人、捕吏、牢守、湯屋の主人、亜麻布織工(地域によって異なる)、遍歴芸人、司祭の子、庶出子等がその主なものであった。こうした身分の人間はまさにその生まれと職業の故に、社会から差別され、教会団体、市民団体からも排除され、何の権利ももたなかった。一四五五年にフランクフルト(マイン)で、ある織工がこうした賤民出の女と結婚したところ、組合はこの男を除名しようとした。市参事会がそれに反対して、妻は祭の際の組合の会合に出席しない、という条件をつけてそれを認めた。このように賤民は町の中心的な行事である祭から、そして祭のクライマックスたる踊りからも除外されていた。アウグスブルクの市参事会は一三八四年に僕婢たちが踊っても良い場所と時間帯を定めているが、これは賤民の位置を逆に証明している。  祭というものはわれわれも皆経験しているように村中、町中が無礼講で日頃の憂さを発散させ、原始的な姿で日常抑えられている本能を思う存分に噴出させる行事なのであるが、その祭に参加出来ない人間が多数中世都市にはいたのである。逆にいえば、祭に参加出来るか出来ないかで、その者の町内における地位のあらましは解ったのである。  こうした一種のステイタス・シンボルとしては他に衣服があった。すでに触れたように中世の身分制社会においては特定の衣服がその地位のしるしであった。聖職者やユダヤ人に独自の衣服が定められていただけでなく、諸侯も騎士も商人も、自分たちの身分を誇示しうる独自な華美を競い合った。それがこうじて、目に余るようになったため、都市や領邦君主が衣服規制令を出したほどであった。だから一四六二年にアウグスブルクの市参事会員ウルリッヒ・デントリッヒが市の公金を横領したときも、彼は市から追放されず、むしろ黒貂の毛皮、絹、天鵞絨《ビロード》、飾り、金、銀などかつてその身分を誇示したものの着用を禁じられたという。その方が追放よりも本人にとっては重い刑罰だったのである。  賤民身分の女は珊瑚の頸飾りなどの高価なものの帯用を禁じられ、ところによっては特別なしるしを衣服につけねばならなかった。こうした規定は職人や徒弟にも勿論適用されたが、これらの下層民の場合はほとんどが何々を着用してはならない、というネガティヴなものであった。例えば頸に銀の鎖をつけたり、マントに銀の締具をつけたりすることは禁じられていた。また、一四六五年のシュトラースブルクの規定では三人以上の僕婢が同じ円帽子、上衣、ズボンその他のしるしを着用することを禁じている。同じ衣服を着ることによって、仲間団体的意識や行動が生まれるのを防ごうとしたのだとマシュケ教授は解説している(こうした衣服規制令もフランス革命にいたるまで廃止されなかったのである)。  こうしたことからもわれわれはこれらの徒弟・僕婢等の下層民が市当局にとって、一面では脅威の的であったことを窺い知ることが出来る。実際、後になると職人《ゲゼレ》が職人《ゲゼル》組合《シヤフト》を結成し、ツンフトの親方や市当局と激しく対立することになる。すでに一二五三年、ライン都市同盟は都市内の平和を緊急に確保するために、五マルク以上の財産をもつ市の全住民から一プフェニヒずつの喜捨を貧民のために集めた。これを布告した文書には「こうして平和の事業が確保されんがために……」とある。ライン都市同盟にとっても下層民の力は侮りがたいものだったのである。 [#挿絵(img/fig25.jpg)]  職人だけでなく乞食も組合を結成していた。乞食とは中世キリスト教社会ではポジティヴな身分であって、現代のように遠慮がちなネガティヴな地位には立っていなかった。マシュケ教授によると、乞食は貧民と違ってひとつの職業として認められた人々であって、専門的職業知識を必要とし、あらゆるトリックを使って同情をひくことを仕事としていた。ボッシュの描く「乞食の様々なトリック」をみると、乞食がまさに立派な「芸術」であり、大変な努力と才能を必要としたことが納得できる。「庶民のたくましさ」などという生やさしい言葉では到底説明できない、中世下層民の生活の一断面をそこに垣間みることができるだろう。それに対して貧民とは生計の資が不足しているため、不本意ながら貧困に耐えている者のことであり、それは一時的な状態とみなされていた。 [#挿絵(img/fig26.jpg)]  このようにすべての身分が、こうした社会では諸階層としてはっきりした上下の枠組みのなかに置かれていたから、それぞれの身分のなかでは皆横のつながりをもたざるをえなかった。その結果、周知の鍛冶屋、大工、靴屋、パン屋等の組合の他にも、経済史の教科書にはほとんど出てこない乞食の組合、跛の組合、盲人の組合、癩病者の組合、白痴の組合、淫売婦の組合などが生まれていた。パリでは乞食の組合に乞食の王様(ロワ・ペトー)がいたし、ジュネーヴでは淫売婦の組合に女王がいた。 [#挿絵(img/fig27.jpg)]  癩病者を除けば、これらのほとんどすべては都市内部で組合をつくっていたから、中世都市の住民は、常にこうした人々を目の前にしながら日常生活を営んでいたのである。どんな人間にも白痴の一片、淫売婦の一片はあるし、どんな人間でも乞食になったり、盲目、跛になったりする可能性はある。だから中世都市の住民は現代のようにこれらの悲惨な運命を担った人々をまったくの他者として隔離したりせず、自分たちの目にふれるところで見守っていたのである。中世都市には「社会復帰《リハビリテーシヨン》」という概念はなかった。貧民、癩者、乞食、盲人、淫売婦なども含めた多様な人間存在がおりなす生活空間が社会そのものなのであった。  ここで病人についても付言しておかねばならない。われわれと同様、この頃の財産をもたない下層民の最大の心配は病気と死であった。死ねば埋葬代がかかったし、多少の貯えがある者でも、いったん病気をすればすっかり使い果してしまった。市の病院には原則として市民権をもつ者しか入れず、下層民は病院に入ることも出来なかった。ただ宗教的・道徳的見地から、選抜されて少数が収容されたにすぎない。中世都市にはたいてい一ヶ所は病院があった。ハーメルンでも律院が病人や一部の貧民の救護を行なっていたが、財政的基盤が弱く、後には市に援助を求めなければならなかった。その結果やがて市が聖霊兄弟団なる看護団体をつくりあげた。そのほか一三世紀からハーメルンにもベギーネンホーフがつくられたが、これは俗人の宗教的活動による奉仕事業で、貧窮化した市民やその身寄りを収容した。ベギーネンホーフへの入所資格は四〇歳以上の婦人にあり、祈りと労働、病人の看護などを行なった。この事業は一四世紀以来人口増加の圧力のもとで結婚出来ず、独立した家計を営むことが出来ない婦人が増加していたことに対する救済対策でもあった。こうした点では市民間にある程度は横の連帯が生まれ、組織にまで発達していた。  しかし市民権をもたない者にはそのような恩恵はほとんどなかったから、職人もその組合を通じて相互扶助を行なうしかなかった。職人が病気になった場合、親方が面倒をみなければならないという規定は稀にしかなかったから、組合が相互扶助の制度をはじめ、それは埋葬費用にも及んだ。これらの職人の組合にはすでに一五世紀に健康保険と生命保険の端緒がみられたという。  以上簡単にみてきたように、中世都市においてはそれまでの身分制の枠が残存している反面、金銭・財力に基づく原理が貫かれていったから、大きな財産を積み上げてゆく上層市民が生まれてくる一方、下層民の生活はますます苦しくなっていった。インフレーションは進行し、アウグスブルクでは一四五九年に賃金は変らないのに、かつて一プフェニヒだったパンが一〇倍にも値上りしている、と訴えられている。一日の賃金が一〇プフェニヒ前後の貧民にはパンを買うことも出来なくなった、と伝えられている。こうして富者と貧者が都市社会のはっきりしたコントラストをなしていった。だから中世都市では「すべての人々」という代りに、「富める者と貧しい者」という表現が一般的に使われていた。  この頃すでに住宅の多くは賃貸住宅であって、富める者は石造りの家に住みはじめ、貧民は狭い小さな家に住んだ。下層民の多くは陽も当らぬ地下室の住居に住み、その数はリューベックで一五三二年に全世帯の一三パーセントに達したという。ハンザの盟主リューベックの栄光の蔭に、こういう暮しがあったことを忘れてはならないだろう。地下住宅は今でもヨーロッパには多い。そこに住んでいると、高い窓のむこうに鉄格子越しに道路があり、いつも通行人の足や犬猫の顔をみながら暮すことになる。学生のように将来のある潜在的エリートは屋根裏部屋に住む。彼らには小さいが窓を通して家々の屋根や青空があるけれど、地下住宅には太陽は通行人の足の間からわずかにさし込むだけなのである。  このような生活を送っていた下層民のなかで最も深い苦しみを味わっていたのは誰だっただろうか。  寡婦と子供たちの受難[#「寡婦と子供たちの受難」はゴシック体]  それはいうまでもなく寄る辺のない婦人、特に子供をかかえた寡婦や未婚の母親たちであった。中世社会においては成人した婦人の数は男性に比べて相対的に多かった。人頭税台帳その他からみると、フランクフルトでは一三八五年に男性一〇〇〇人に対して婦人は一一〇〇人、ニュールンベルクでは一四四九年に同じく一二〇七人、バーゼルでは一四五四年に同じく一二四六人にも達している。戦乱があいつぎ、成人男子の多くが死亡し、人口に大きな割合を占めていた聖職者は独身であったから、結婚出来ない婦人の数は極めて大きかった。その結果未婚の母親の数も寡婦の数も想像以上にのぼっていたのである。  彼女たちは市民権をもっていなかったから、親方になれなかったどころか組合に入ることも、徒弟になることも、賤民の職業とされていた刑吏、牢守、皮剥人などになることも出来ない。彼女たちはこれらの賤民のように職業・身分の故に賤民だったのではなく、その存在がすでにこの社会でポジティヴな地位すらもちえないようなものなのであった。  彼女たちが賤民に数えられるのは、まさに彼女たちが配偶者を失ったことによって身分制原理から、財産もなく、働く機会を奪われたことによって金銭の原理からはじき出されてしまったからに他ならない。もとよりリューベックのような町では、人口に占める婦人の割合が大きかったから寡婦もツンフトに入れる、という規定がすでに一三世紀には成立している。しかしこのような規定は例外的であった。パリやケルンのような都市を別にすれば、ほとんどのツンフトは婦人労働を禁じている。  下層民の婦人に限らず、中世における婦人の地位が一般的にいって大変低かったことは周知の通りである。婦人の法的地位からみると、中世社会においては婦人は完全自由ではなく、また法人格ももっていない。したがって公的生活には登場出来なかった。たしかに一二世紀のフランスには政治家として例外的に有能な女性がいた。また一般に中世の騎士道精神が婦人を大切にしたといわれ、華奢で繊細、そして粗野な振舞をみるとすぐに気絶してしまうような可憐な存在として婦人が描かれたりするが、いうまでもなくそれは現実ではなかった。文化史家ビューラーがいうように、華やかな騎士の試合や儀式に花をそえる高貴な婦人たちは、試合ののち騎士が家で生活をともにした婦人とは別人であり、あのような婦人たちは騎士たちの恋愛遊戯の対象でしかなかったのである。王侯・貴族でも婦人を打擲したし、教会でもしばしば婦人の地位は低いものとされ、魔女はまさに女性の性の故であるといわれた。騎馬試合をいろどる婦人たちも、中世後期には飾り物にすぎなくなり、婦人たちは教会においても家庭内においても発言権をもたない存在となっていった。婦人の名誉さえ夫の所有物であり、ヴィルツフートの判告録では夫が罰金刑に処せられ、夫に支払い能力がない場合、妻の貞操をもってかえることが出来るとされている。  社会的に身分の高い婦人でも実情はこのようなものであったから、法的にも経済的にも最低の地位にあった下層の婦人、特に寡婦の地位は想像に余りあるほどであり、その数は意外に多かった。一四二九年のバーゼル市の租税台帳では、こうした婦人は「組合に加入していない者すべて」という項目の下に登場している。バーゼルで最も貧しかった葡萄摘みの組合員の三六パーセントが、一〇グルデンまでの僅かの財産しかもっていなかったことになっているが、この租税台帳のドン尻に記載されていた者たちの税額も組合に加入していない者(しかし独立の家計を営んでいる者)全体のなかにおいてみると、六〇パーセントにも達している。そしてこの組合に加入していない者全体四八四名のなかで、婦人は六〇パーセントを占めているのである。  彼女たちは組合を結成していない様々な仕事をし、多くは日傭いとして、特に毛織物業などの下働きをして生計を立てていた。ヴィスマールでは一四七五年に五七七軒の家屋、一二七八戸の小屋、一七七戸の地下住宅、一九戸の地下小屋ともいうべきものがあったが、世帯全体の七・八パーセントを婦人(寡婦)が占め、それらの婦人世帯のうち小屋や地下住宅に住んでいた割合は二六・二パーセントに達したという。ハーメルンでもベギーネンホーフがつくられた事情から推して、このような婦人の数は異常に多かったと想像される。  身にはボロを纏い、同年輩の女房などがそれぞれの亭主のことを自慢したり、こきおろしたりしている立ち話の横をうつむきながらも毅然としてすりぬけ、男たちの好色なまなざしにさらされながら、子供の成長だけに一生の期待をかけていた彼女たち、こうした女性たちは無限につづくように思われる、昼と夜の交代をどのような心境で受けとめていただろうか。  日傭い労働者の妻でさえ、亭主が昼食に帰ってきた時にもってくる日給で晩飯の仕度をしたのである。夫をもたない彼女たちの頭のなかにはいつも次の食事の費用をどうするかということだけしかなかっただろう。朝のスープや簡単なパン一片の、そして出来れば昼の粥の用意さえあれば、彼女たちは健康である限り満足して藁床で昼の衣服をかぶって眠りについたことだろう。そしてまた真黒になって働かなければならない朝がくる。  だがドイツ中世都市の日常生活にはわが国の現在のように、駆けずりまわるほどの忙しい仕事があったわけではない。彼女たちは仕事がありさえすれば喜んで働いたことだろうが、実際はそれがなかなか難しかった。オーストリアの歴史家ヘーアは中世後期にドイツの都市が衰退していったのは、これらの婦人の巨大な労働力が男性によって駆逐されたせいだとまでいっている。商業が発達した大都会ならいろいろな下働きの口はあったが、ハーメルンのような小都市では仕事にありつくことがすでに大仕事であり、屈辱的な経験であった。だからこうした貧民の多くはなかば喜捨にたよって暮していたのである。  同じニーダーザクセンにあり、規模もハーメルンとそう違わないゲッチンゲンの町では、一五世紀に年三回行なわれた祭の際に喜捨を貰いに集まった貧民の数は、市外から来たと思われる者も含めて三〇〇〇人といわれる。一五世紀中葉でも一六〇〇人以上の人数が記録されており、当時の市の人口を考えるとこの数は大変大きなものである。市の人口のほぼ三分ノ一が貧民という自覚をもっていたことになる。そしてその多くは女手ひとつで世帯を支えなければならない未亡人や未婚の母親たちであったと考えられる。  そのうえすでに述べたように下層民の婦人は祭の踊りに参加することも許されなかった。同じ年頃の男女がきらびやかに着飾って笑いさざめき、打ち興じる町をあげての大騒ぎの最中に、彼女たちは舞楽の響きを遠いものとして聞きながら、喜捨を求めて右往左往していたのである。社会的にも経済的にも、そして精神的にも彼女たちは差別された生活を何世紀もの間送らされてきたのである。  彼女たちの唯一の希望となりえたかもしれない子供たちの将来もまったく暗いものであった。子供はすでに生をうけた瞬間から生命の危険にさらされていた。堕胎によって、陽の目を見ずに闇に葬られてしまう子供の数は大変多かったといわれる。一五三二年にカール五世が出したドイツ最初の刑法法令集『カロリーナ』(三五、三六項)では堕胎は拷問ならびに死刑をもって禁じられていたし、チューリッヒでも子供殺しは溺死刑となっていた。また茨の床に寝かされたまま生き埋めの刑を執行されるところもあった。こうした刑の厳しさからみても、闇に葬られた子供が少なくなかったことが想像される。たとえ無事に生まれても育つ子は少なく、二〇人も子供を生みながら一人二人しか生き残らなかった、不幸な夫婦は数多くいた。 [#挿絵(img/fig28.jpg)]  ニュールンベルクの市参事会員コンラート・パウムガルトナーは二一人の子供を授かったが、一四六四年に死去した時、残ったのは息子五人と結婚した娘四人だけであった。アウグスブルクの年代記作者ブルクハルト・チンクは最初の結婚で九人の子供を授かったが、六人は幼くして死亡し、二回目の結婚をした後、妻でない愛人との間に二人の子供をなしたがその一人はすぐに死亡し、三回目の結婚で四人の子供をなしたが、二人しか生き残らなかったといわれる。この例は幼児死亡率が高かったことばかりでなく、母親の死亡率も高かったことを示していると考えられる。産褥熱で死亡する母親の数も極めて多かったことだろう。  現在のような産児制限の方法は知られていなかったから、皆多産であり、有名な画家デューラーの父も一八人の子供をなしている。皇帝カール四世のように息子ヴェルツェルが生まれると、その子供と同じ重さの金一六マルクをニュールンベルクからアーヘンまで贈ることが出来たのは、まさに皇帝だったからであり、大多数の人間、特に下層民にとっては子供の誕生は大変な経済的負担であった。子供が生まれるとなると産婆や近所の女の手伝いが必要となり、生まれると洗礼のための名付親を探し、司祭に洗礼の御礼を支払うなど様々な費用がかかった。金がない者はユダヤ人から金を借りねばならず、こうして負債がかさみ、家賃も払えなくなることが多かった。特に洗礼は中世では単なる家族的な行事ではなく、公的な行事であったから大変な費用がかかった。ハンス・フォルツのいうところによると、だから十分な金がない者は結婚をあきらめるべきだ、ということになる。  要するにこの時代は子供にとって大変厳しい時代でもあった。金持の子供でもたいてい粥、ミルク、穀粉で育てられ、ザクセンでは早くから固形食が与えられたという。また子供用の玩具などはほとんどなく、せいぜい女の子に人形、男の子に吹矢や騎士人形、竹馬、風車などがあったことが記録に残されているにすぎない。だが子供は玩具がなくても遊ぶものである。イスラエル・フォン・メッケネンの絵は当時の子供がどんな遊びをしていたかを示している。 [#挿絵(img/fig29.jpg)]  学齢期に達した都市の子供は学校へ行く。そこで手工業者になるのに必要な読み書き計算を習うのである。学校の教師の給料の一部は都市がもち、他は生徒の月謝でまかなわれたが、全体として、大変安かったといわれる。フランクフルトでは傭兵一人と同じ位とされているほどであるが、それでも貧しい親には大変な負担であったに違いない。一三五〇年にブレスラウでは月謝は校長に三ヶ月毎に二グルデン、助手(ロカーテン)に週一デナリウスとなっている。助手は毎週月曜に金を集め、三ヶ月毎の休暇にはそれぞれ一デナリウスずつを集めた。ガルリ(一〇月一六日)からヴァルプルギス(五月一日)まで生徒は毎日薪を持参することになっているし、ミサや後述する練り歩き(プロセッション)の時には蝋燭をもってゆかねばならない。都市の下層民にはこうした負担は耐えられなかったであろうから、彼らの子弟は学校へは行かなかったと考えられる。  また中世においては孤児院や棄子養育所(フィンデルハウス)もハーメルンでは存在したという記録がない。ドイツではトリアーが最も古い孤児院をもっており(七世紀)、フライブルク、ウルム(一三八六)がその次に古い。棄子養育所にいたっては一三三一年にフランクフルト、一四七三年にエスリンゲンにはじめて現われている。しかし孤児や棄子が少なかったわけではもちろんない。エスリンゲンのような小都市でも一六世紀に四〇〜六〇人の棄子が養育され、ウルムでは同じ頃二〇〇人の孤児が収容されていた。こうした施設のない都市では孤児や棄子は町の人々の喜捨にすがって、物乞いの生活をしなければならなかったに違いない。そして都市人口のかなりのパーセントを占める下層民の子供も彼らと実質的には変らない生活を送っていたと考えられる。 [#挿絵(img/fig30.jpg)]  下層民の子弟についての史料はほとんど皆無に近いので、具体的なイメージを描くことは大変困難だが、都市上層市民や貴族の子弟についてはいろいろな記録や処世訓のようなものが残されていて、日常生活についてある程度の像を描くことが出来る。貴族の子弟はそもそもその教育からして都市市民の子弟のそれとは違っていて、読み書き計算よりも伝統的な社交上の遊戯や楽器の演奏、狩や乗馬、武術などに重点がおかれており、学校ではなく、通常は宮廷に仕えながらそれらを身につけていったのである。  ところで都市上層市民の子弟の教育は、初級段階では一般の庶民の子弟のそれと本質的に異なってはいない。一四四一年のレーゲンスブルクの記録によると、生徒は遠足の時に榛の枝を自ら折り取って、自分が打たれるための鞭を作った。また罰を受ける生徒は他の生徒が唱っている時に、柱に縛られて鞭打たれたという。文化史家アルヴィン・シュルツはこれを典型的な例としてあげているが、罰は一般に大変厳しかった。そして教師の側からの罰の厳しさに対応して、生徒の乱暴狼藉も相当のものだったようにみえる。  例えばブルクマイルの「生徒の喧嘩」では、本は破られて床の上に散らばり、ある生徒は学校鞄を振り上げ、ある生徒は筆箱をふりまわし、石板を武器にしている者もみられる。また有名なのはネーデルランドの画家ブリューゲルの版画「学校のロバ」であろう。この版画ではありとあらゆる奇妙な姿態の生徒が、それでも皆書物や文献を手にしているところが描かれている。ところが素人目にも奇妙に思えるのはここに描かれている生徒の顔である。生徒の顔は私にはどうみてもひねこびた老人のそれとしかみえないのだ。この版画はおそらく大人の世界への風刺をテーマとするものであろう。 [#挿絵(img/fig31.jpg)] [#挿絵(img/fig32.jpg)]  ブリューゲルには他に「子供の遊び」という絵があり、そこに描かれている子供たちの頬のふくらみはたしかに子供のものである。だがそのまなざしと表情は現代のテレビのコマーシャルに出てくる子供たちのそれとは決定的に異なっている。じっとみているとなんともいえないやるせない愛《いと》しさを感じさせられるほど、素朴な子供の世界が描かれていることが解ってくる。まさに子供以外の何ものでもないと思えるのだが、その子供らしさは現代のそれとどんなに隔っていることだろう。  現代の子供は、両親や社会組織から子供としての領分を与えられ、その枠のなかで外界から指示され規定された子供らしさを演じてみせることによって、可愛いとか大人しいといった評価を得て、その存在を保障され、確保してゆくのだが、中世やブリューゲルの時代には現代のように外界や社会組織の側から子供の領分は与えられていなかったのである。子供たちはその遊びも楽しみも、大人の世界のなかで自ら奪いとってゆかなければならなかった。子供たちは家庭でも学校でも道路上の遊びにおいても、大人が構成する社会の全体のなかに、何の斟酌もなく投げ込まれていたのである。  ブリューゲルの「農民の結婚式」の左隅に描かれている子供は、大人と同じ服を着、目までかくれる大きな帽子をかぶっている。「雪のなかの狩人」と題する傑作の焚火の傍に立つ子供もけなげな雰囲気を伝えている。子供はこの時代には「小さな一人前の男」であり、父が死ねば直ちに一家の長、一族の頭となり、娘は八歳ですでに嫁にいった。総じて中世は子供にとって大変厳しい時代であった。絵画や版画にみられる子供たちのまなざしや表情はそのことを物語っていないだろうか。  大人と同じ厳しい条件のもとにおかれた子供たちは、大人が故郷を捨てて東ドイツへ赴いたり、都市へ逃亡しなければならなくなったり、飢えや貧困のためにゆとりを失うほどの生活の厳しさに喘いでいる時には、その苦しみは小さな頭と身体にはもはや耐えがたいまでに高まり、「忘我の世界」に踊り出なければならなかったことだろう。それには僅かのきっかけさえあれば十分であった。  子供の十字軍・舞踏行進・|練り歩き《プロセツシヨン》[#「子供の十字軍・舞踏行進・|練り歩き《プロセツシヨン》」はゴシック体]  厳しい社会的・自然的環境のなかに何の保護もない状態で投げ出されていた中世の子供たちは、その重荷に耐えられなくなった時、しばしば現代の人間には理解しがたい行動に出た。その最も有名なのは「子供の十字軍」であろう。  一二一二年五月に、フランス、オルレアンのクロワ地方出身の羊飼少年シュテファンがサン・ドニの国王フィリップ(一一六五〜一二二三)の前に現われ、「自分が羊をみている時、キリストが現われ、十字軍に赴くよう説かれた」と告げた。国王は耳をかさなかったが、少年は説教をはじめ、やがて数千人の少年・少女を集めた。若い司祭や年輩の巡礼も加わって、同時代人の誇張によると「その数三万人」に達し、マルセイユまで行進し、そこで二人の商人の運送船に乗り込んだまま行方が解らなくなってしまった。一三世紀の誇張癖を十分にもっているトロワ・フォンテーヌのアルベリッヒの筆によると、子供たちはアフリカの沿岸で奴隷として売られてしまったという。ありえない話ではない。  同じ年一二一二年には、ドイツでも子供の十字軍が起った。ケルンで一〇歳の少年ニコラウスがモーゼを自称し、十字軍遠征を説きはじめ、多数の少年少女を集めて二つのグループに分れてアルプスを越えて南下し、同年八月にはジェノヴァに達した。ジェノヴァの年代記作者の伝えるところによるとその数は数千人で、少年少女の他成人した男女もいたという。おそらく子供たちの身を案じた両親などであったと考えられる。ジェノヴァでかなりの子供は隊列を離れたが、残ったものは資金がないため船に乗れず、ジェノヴァ当局から退去を命ぜられて、陸路アンコナをへてブリンディシまで辿りついた。ニコラウスが約束したようには、海はジェノヴァでもピサでも二つに分れて道をつくらなかったからである。そこで司教が説得して帰国させ、子供の十字軍遠征は挫折したといわれる。 [#挿絵(img/fig33.jpg)]  故郷に帰った子供に、一体どのようなつもりだったのか、と訊ねた人に対して、ある子供は「自分でも全然解らない」と答えたという。  こうした現象を「説明する」方法はいろいろあるだろう。だが常に根底においてみすえておかなければならないのが、この時代の子供たちがおかれた社会的・心的境位であることはいうまでもない。  ハーメルンの近くのエルフルトにおいても、一二三七年に多数の子供たち(当時の誇張によると一〇〇〇人といわれる)が、一四キロ離れたアルンシュタットまで「使徒は遣わされたり」と唱いながら、夢中で踊り歩き、疲労困憊の末倒れてしまった。アルンシュタットからの知らせで両親たちが駆けつけ、荷車に乗せて連れ戻ったという。この事件の背景についてもマルチン・ヴェーラーの研究以外にはまったく扱われていないので、十分に解明されているとはいえないが、すでに一二三二年にエルフルトで異端のかどで四人が焚殺され、一二三五年には敬虔な信仰と貧民救済で名高いチューリンゲンのエリーザベト(一二〇七〜一二三一)が聖女に列せられ、その翌年にはエリーザベトの遺体が祭壇に祀られた。こうした一連の出来事が直接のきっかけとなっていたとみられる。いわば一種異様な宗教的興奮のなかで、エリーザベトが聖女に列せられた祝いが一〇日間もつづけられていたのである。  ただでも興奮しやすいといわれるチューリンゲン人が、このエリーザベトによせる敬慕の念にはすさまじいものがあったから、その興奮の激しさには想像に余りあるものがある。エリーザベトの乳房を切り取り、聖遺物としてもっていった者もいたという。いうまでもなくこうした興奮が子供たちにも感染したと考えられるのだが、こうした宗教的興奮の奥底にわれわれは当時の人々、特に一般庶民の鬱屈した日常生活と疲労の色の濃さをよみとらなければならないだろう。  ところで少年少女の十字軍もエルフルトの子供たちの舞踏行進とその果ての疲労困憊も、当時の社会のなかでは格別特異な出来事ではなかった。歴史書に記録されたためにわれわれにも知られるにいたったこれらの出来事の背後には、都市や農村で一年に何回も繰り返された年中行事としての祭があった。  中世には今日では想像することも難しいほど数多くの祭があり、その形態は本質的にいって「練り歩き」プロセッションだったのである。このプロセッションはいうまでもなく本来教会の慣習であった。都市や地域によって名称や日時は異なっていたが、どのような都市でもその主教会の献堂式の日は盛大な祭であり、近隣からも人々が集まり、数日間にわたっていろいろな楽しみが連続して行なわれた。村の教会の献堂式の祭は、村人にとって最大の楽しみでもあった。しばしば五月の樹(マイバウム)を立て、そのまわりを村人が踊りまわった。一四、五世紀には各地から商人が集まって屋台を開いていた。人々はもとより教会に来たというよりは、多くの場合踊りの楽しみのために集まったのであって、武器や太鼓をもって、まるで戦にでも出かけるような騒ぎで集まる連中もあった。実際この時にはいつも集団の喧嘩が絶えず、頭を血だらけにして若者たちは家に戻った。 [#挿絵(img/fig34.jpg)]  フランクフルトでは葡萄の守護の聖人ウルバヌスの日(五月二五日)に、関係者が花や葉で飾った聖人の画像をおしたて、賑やかな音楽とともに道路を練り歩いた。また御聖体の祝日やフランクフルトの大洪水(一三四二)をきっかけにして行なわれるようになった、マリア・マグダレナの祭の行列も大変華やかなものだったといわれる。今日でもカトリックの諸国では聖体行列が行なわれるが、こうした教会の行事となっている祭の他に臨時の祭があり、それらも主として行列行進であったといってよいだろう。  本ミサまたは歌ミサ(ベーデメッセ)が行なわれる日には、人々は午前中仕事を休み、商売も休んで教会に出かけた。このベーデメッセの主な形態も行列であって、長い蝋燭をもって町中を練り歩いた。それはそもそもいろいろな不幸や戦争、災害、疫病を払い除けるための祈願の行事であったから、感謝祭ともいわれ、極めてしばしば行なわれた。一五世紀のフランクフルトでは一年に一二回も行なわれたという。葬式もまた盛大な行列であったことはいうまでもない。  その他に一般に人々が自発的に行なう巡歴があり、それは一四世紀には十字架の道行きと呼ばれ、一五世紀には聖遺物巡礼とも呼ばれた。それも病気や悪天候による不作、戦争や不幸な出来事をきっかけとして行なわれ、順路はたいていの場合きまっていた。ハーメルンの町ではカルワリオの小教会堂への十字架の道行きが行なわれていたことはすでに述べた通りである。  ところで祭は本来、どこでも庶民の生活のリズムのなかから生まれるものである。ゲルマン民族は遊牧民であったから、その頃の牧畜を中心とした夏と冬の季節の移り変りが、農耕生活に移ってからも生活の大きなリズムをなしていた。  一年は家畜を野に放つ行事をもってはじまった。それをいつ行なうかを、天候その他の条件を考えて氏族の間で定めるための集会「三月原野集会」が開かれた。そこには皆が集まり、食事をともにし、様々な議題が討議・裁決された。やがてその時に市場も開かれるようになり、年のはじめの大きな祭日になってゆく。この祭の日時は気候によって左右されたから、アルプス以南ではすでに二月の末に行なわれたし、より北の諸国では三月や五、六月頃、スウェーデンなどでは夏至の日に行なわれた。  冬のはじまりも生活の重要な局面であって、家畜は夏の牧地から戻り、戦士は獲物をもたらし、家庭の主婦はとり入れの成果を整理する。冬用の飼料は十分でなかったから、家畜のすべてに冬越しをさせるわけにはいかない。そこで冬の食糧の確保のためにも、多数の家畜を屠殺しなければならない。その時、人々は御馳走を用意してとり入れを祝い、肉をたっぷり食べ来るべき冬に備える。この日も確定されてはいないが、豚の飼料になる槲《かしわ》の実が十分にあったかどうか、によっても左右された。カール大帝の御料地令第二五条に「養豚飼料の槲実につきては、その在りやなしやを荘司は九月一日上申すべし」(上原専禄『独逸中世の社会と経済』二〇〇頁)とある。この日に槲の実の量の報告を受けて、屠殺すべき家畜の数を定めたのである。この日も地域によって異なり、後には一一月三〇日となったが、この日は隷属民が貢租として豚などの現物を納める日ともなった。  ドイツにおいてはこうして春分(三月二一日)後の第一の満月後の日曜日(三月二二日から四月二五日までの間)に行なわれる復活祭と、九月二九日のミカエル祭とが古ゲルマン以来の春の祭と収穫の祭として、後までも賑やかな宴会、楽しみなどと結びついて祝われているのである。  祭はこのようにゲルマン民族の古来の生活のリズムと密着したものであり、庶民の日々の生活の憂さと疲労の捌《は》け口でもあったから、庶民のエネルギーが爆発する機会でもあった。だからキリスト教が入って以来、教会当局と庶民とは祭の実質的内容をめぐって、無言の激闘を繰り返してきた。  キリスト教会は祭の奥底にひそむ古代的・異教的伝統を根絶やしにしようと努力していたから、そのためにあらゆる努力を惜しまなかった。しかし古ゲルマン時代以来の祭はすべて市場や裁判の日と結びついていたから、その祭日全体を動かすことはほとんど不可能であった。そこで教会が考え出した方策は、ゲルマン民族古来の祭の中心をなす宴会に制約を加えることであった。古ゲルマン人でなくとも、食物も飲物も制限されて祭の気分が出せるだろうか。しかしキリスト教会はそのはかりしれない執拗さで、古ゲルマン時代以来の祭の真只中に四季の斎日(三日間の厳しい禁欲の日)を押し込み、裁判集会などはその日に行なわれるようにしたのである。  こうして灰の水曜日(復活祭前四六日・四旬節のはじまり)、聖霊降臨節(復活祭後四九日)、聖十字架祭(九月一四日)、ルチア祭(一二月一三日)がそれぞれ三月、五〜六月、九月、一二月の古来の民族的祭日にわりあてられたのである。  その結果、人々はそのしめっぽい斎日を避けて自分たちの祭を斎日の前後にずらすしかなかった。このようにしてキリスト教的な祭日と異教的・原始的な祭日とが連続して行なわれるようになり、異邦人の目には異様な二重の性格が生まれたのである。しかも教会は四季の斎日の直後の水曜、土曜を斎日としたので、たらふく飲みかつ食う異教的な祭が、週の三日以上にわたることは出来なくなってしまった。復活祭が四月の初めにくると、古来の三月原野集会はまったく厳しい斎日によって分断され、本来冬至の祭であったクリスマス前の数日も斎日にあたってしまう。聖霊降臨節の二週間後からペトロとパウロの日(六月二九日)までは、かつては使徒の斎日であり、キリスト昇天祭(復活祭後四〇日)の前は祈願の斎日となった。  こうしてたらふく飲みかつ食う古来の民族的な祭と、斎日の強制によってそれを抑えようとする教会の祭とは奇妙なコントラストを示しながら、キリスト教の伝播とともに教会暦のなかに組み込まれ、ひとつのものとみられるようになったのである。  そのなかでもかなり長い間民族的な祭の形態を失わなかったのが、四旬節とヨハネ祭であった。  四旬節とヨハネ祭[#「四旬節とヨハネ祭」はゴシック体]  四旬節は本来復活祭前の四〇日間の精進の日であるが、民族的な祭としてそのはじめ冬を追いはらう春の祭であった。三月原野集会にはじまるこの祭日に、教会は最も厳しい四旬節をぶつけたのである。その結果四旬節前に春祭がずらされ、四旬節前の三日間は本来の民族的な春の祭として祝われることになった。この三日間はファストナハトと呼ばれ、今日では謝肉祭カーニバルとして知られている。四旬節に入って厳しい禁欲を強いられる前に、人々はたらふく飲みかつ食い踊る。シュルツにいわせれば「あたかも人々は明日の生命がないかの如くに飲み食い、もう二度と出来ないかの如くに遊びや冗談に打ち興じ、今日のうちにあらゆるものにこの上なく満ち足りようとするかの如くであった」。この三日間全ドイツは愚行と馬鹿騒ぎの坩堝《るつぼ》と化し、男どもは女装し、女性は男装して踊り、仮装しない者も鉛丹やインキであくどい化粧をし、悪魔や悪霊に扮し、ある者は裸で走り廻る。セバスチアン・フランクは次のように伝えている。 [#ここから2字下げ]  この祭に人々はたっぷり気晴しをする。槍、競技、舞踏、四旬節遊戯など……。お偉方は日曜日に、庶民は月曜日に祭をする。総じてこの時にありとあらゆる悪ふざけや気晴しが行なわれる。何の恥らいもなく裸で走り廻る者がいるかと思えば、まるで動物のように四足で這いまわる者がいる。馬鹿を装う者がいるかと思えば、修道士や王を装う者がおり、この祭には彼らもみな笑い種とされる。翼をつけ、長い嘴をつけて高い竹馬にのって鸛《こうのとり》の真似をする者がいるかと思えば、熊になったり、荒々しい木樵や悪魔になる者もいる。排泄されたばかりの糞をもち歩いてそれに接吻しては蠅を装う者もいる。……猿になったり、馬鹿の服を着ている者もいるが、彼らはまったく相応しい仮装をしているというべきで、真実のところ彼らはその通りの者なのである。  ウルムでは四旬節前に、ある慣習があり、この日に家に入る者が「出入りは許可済」と言わないと捕えられ、まるで犯罪人のように手を背後で縛られて、山羊を先頭に町中を練り歩かされた。 [#ここで字下げ終わり]  ピーター・ブリューゲルやヒエロニムス・ボッシュの描く様々な絵画は、こうした四旬節前の馬鹿騒ぎと決して無縁ではないだろう。  こうした馬鹿騒ぎには聖職者も超然としてはいられなかった。ゴットシャルク・ホレによれば「ミュンスター司教区では仮装して、仮面をかぶった男一〇人が礼拝の最中に教会になだれ込んできて、ミサをあげている司祭を侮辱した。彼らは一プフェニヒ納める代りに、皆一かけらのパンの皮を献納し、歌を唱いはじめ、司祭を嘲弄した」。ホレはこれらの人間が罰として皆早死にしたと書き、教訓話としているのだが、こうした例はオズナブリュック等でも起り、仮装は市当局から禁じられてしまう。  四旬節に入ると食事は制限しなければならない。四〇日間は肉、ミルク、チーズ、卵、脂(ラード)なしで暮さなければならないのである。豆や梨などで飢えをしのいだ。しかしそれも必ずしも厳密に守られたわけではなかった。一四七八年に教皇はフランクフルト市民に四旬節の間、受難の週を除いて卵とチーズを食べる許可を与えているし、ニュールンベルクでは一四四四年にエウゲニウス四世によって、四旬節の間金曜日を除いて病院に僅かの寄付をすれば、バターを食べてよいことになっている。四旬節のはじまる灰の水曜日に、人々は教会で灰をかぶって懺悔をすることになっているが、ヨハンネス・ボエムスによると、フランケンではこの日に奇妙な習慣があった。  この年に踊りに加わった若い娘は、皆この日に若い男たちによって集められ、馬の代りにひとつの犂《すき》につながれ、この犂の上には笛吹き男が乗って踊りながら笛を吹き、川か湖のなかにひき込まれたという。ボエムスは祭のときに教会の禁を破って軽薄な遊びにふけったことの償いとして、このような行事が行なわれたとみているが、このモチーフは〈笛吹き男と一三〇人の子供の失踪〉の伝説と根底において共通のものをもっていないだろうか。  四旬節の最中でも、祭につきものの騒ぎや行列は別な形で進行した。ボエムスによると四旬節の最中に若者が死をかたどった藁人形を作り、これを棒の先につけて大声をあげながら隣村へ運び込んだ。これを友好的に迎えてくれる家ではミルク、豆、焼いた梨などの御馳走を受け、元気に戻ったが、これを忌み嫌い、武器をもって脅して去らせる家もあったという。また古くなった木製の車輪に藁を巻き、大勢の若者がかついで高い山に登り、一日中いろいろな騒ぎをしたあとで、夕方には車輪に火をつけ、山を転げ落した。それはまるで太陽か月が空から落ちてくるかと見えるほどであったという。  枝の主日(復活祭前の日曜日)にはキリストの像を乗せた木彫りの驢馬が行列に加わる。ときにはその上に人間が乗って、主のエルサレム行を演ずることもあった。こうした宗教的な行事の最中にも、祭につきものの悪ふざけはなくならなかった。行列の旗をもっている男が、旗の棒の端をズボンの前の開口部の布あてにおいて支えていたことなどが、前述の『チンメルン伯年代記』には出てくる。 [#挿絵(img/fig35.jpg)]  こうした悪戯は罪がないが、復活祭前の受難の週になって、人々が再び懺悔しはじめる頃になると、しばしば深刻な事態を生んだ。ハンマーや石、棍棒、ステッキ、槌などを手にした群衆があらかじめ教会の灯をすべて消し、真暗闇にしてから哀れなユダヤ人を襲撃したからである。この「戯れ」のために、人々は普段から自分の道具を用意していたという。鬱屈し、疲労しきった日常生活のなかで、屈辱に耐え、貧困をしのんで日々を送っていた庶民は、この日のユダヤ人襲撃の道具をひそかに考案する楽しみに、その鬱屈の捌《は》け口を求めていたのである。  人々がキリストの受難の苦しみを口にするたびに、それはユダヤ人に対する憤慨の言葉となってはき出された。キリストの受難は彼らの日常生活の苦しみの表現であり、高利貸として彼らの日々の暮しを苛んでいたユダヤ人と、キリストを裏切り迫害したユダヤ人とが重ね合されて映っていたのである。椅子に釘づけされ、打たれ、殺されたユダヤ人も数多くいたという。一三三六、一三三八の両年には大規模なユダヤ人狩りが行なわれた。シュトラースブルクではツンフトがユダヤ人狩りを呼びかけてさえいたのである。ユダヤ人は一般に高利貸として貧民の恨みの的であったが、彼らの背後にはそのおかげで利益を貪っていた皇帝や諸侯、都市貴族、市参事会員らがいた。一般の庶民や下層民はそのことに気付かず、目の前のユダヤ人に日頃の恨みをぶちまけたのである。  このようなユダヤ人苛めにみられる精神の在り方は、決してユダヤ人にだけ向けられた、孤立した現象ではなかった。中世社会においてはそれぞれの人間の身分がはっきりきまっており、服装その他によって各身分もすぐに見分けられるようになっていたから、人々は低い身分の者の特徴や隣人の身体的欠陥その他を常に嘲笑の対象とし、憂さ晴らしをしていたのである。  祭の時に演ぜられる笑劇の多くはこのような阿呆劇であり、坊主や片端者、百姓、老女、田舎の風習、さらに隣人の不幸などが嘲笑の的とされていた。しかしその嘲笑の仕方は大袈裟で罵詈雑言の限りをつくし、糞づまりとか小便たれとか、人間を動物として描写することによる嘲笑であったから、やはり一種の芝居なのであった。嘲笑される者も自分と同じ人間でしかないという理解が前提とされていた。それに反してユダヤ人はその背後に高利貸と政治権力をもっていたから、ただの冗談ではすまなかったのである。もとよりすべてのユダヤ人が高利貸であったわけではない。だからユダヤ人の多くは中世社会においては、支配権力に対する庶民の憤りを一手に引受ける犠牲の羊であったともいえる。  四旬節よりもさらに民族的な形態を強く残していた祭にヨハネ祭がある。この日(六月二四日)にはドイツのほとんどの町や村で火が燃され、老若男女が皆集まり、唱いかつ踊る。この祭は元来夏至の祭であって、キリスト教以前の原始的な宗教形態が残存したものともみられ、一四、五世紀においても異教的習慣がいたるところで観察された。蓬や熊葛の花環をつくり、手には飛燕草をもって、それらの花の間から火を覗けば、一年中眼の病気にかからないといわれた。そして花を火のなかに投げ込み、「私の不運もみな燃えさせ給え」と祈る。ヴュルツブルクでは司教の使用人たちが火を燃し、木の円盤に火をつけて上手にマイン川に投げ落す。それはまるで火焔につつまれた竜のようにみえたという。 [#挿絵(img/fig36.jpg)]  こうした習慣はインド・ヨーロッパ語族に共通のものとみるものもあり、夏至の火には人間の希望と願いがこめられていた。特に異性間の愛情、結婚、新家庭の建設などがこの火に祈願された。だからすでに述べた、ヴァンの集団結婚式のモチーフが生まれるきっかけがここにあったのである。  この日は一人の男が一人前になる成人の日でもあり、中世都市のツンフト制度のもとにおいても新しい徒弟の受け容れ、職人の独立、親方への昇格などがこの日に行なわれた。市民権が与えられるのもこの日であった。ニーベルンゲンの歌の主人公、若きジークフリートが元服したのも、この夏至の日であったことはよく知られている。騎士の世界でも、はじめはヨハネの日に若い騎士の卵が集会において正式な構成員たる資格を得たのである。  自分たちの運命共同体としての種族の次代を託す息子等の成人を確かめ祝う儀式は、決して外来のお仕着せのものではありえない。キリスト教会は、繰り返しこのキリスト教以前のゲルマン民族の伝統的行事をキリスト教化しようと努力してきた。それにもかかわらず「焚木」に火がつけられ、高く燃えあがる時、人々の魂の奥底に眠る始源的感情が噴出してくるのをとどめることは出来なかった。人々は踊り狂い、町中を練り歩いた。興奮の奥底には日常の差別された生活、鬱屈した生活感情が渦を巻いていたことだろう。祭の日に普段は到底食べられないほどの御馳走で満腹し、自制心を失った時、彼らの不満は陶酔的状態の中で、忘我の踊りと練り歩きとなって噴き出していったのである。  司祭ですら例外ではなかった。司祭、助祭らにもこの興奮はのりうつり、太鼓やティンパニーなどを鳴らして宴会を開き、家々や道路で乱舞したという。ある司祭は食事のあと気がふれた者のように驢馬にまたがり、村や道路を練り歩き、教会に乗り入れては居合せた人々に上機嫌で水をかけたという。  だから一四〇七年のヴュルツブルクの教会会議では、こうした教会への冒涜を戒める決議が出されている。このような事例は全ドイツにみられ、北のバルト海に面したエルムランド司教区の教会会議でも、一四九七年に「祭の際に何人かの者が司教冠と司教杖と司教服を身につけて、教会の内外で祝福を与え、人々の爆笑をかった。また教会のなかや前庭で商品の売買が行なわれた」ことなどが非難されている。ここにはすでに「識者」に宗教改革の要請を不可避なものと意識させる状況がよみとれるが、こうした事態も祭の興奮のなかではじめて露呈されたのである。  このような祭はすでに待降節の第一主日(一二月一日に最も近い日曜日)からはじまり、一年中ほとんど間断なくつづけられる。こうした祭における一時的解放の喜びがあったからこそ、長い中世の間社会の下積みとされて呻吟していた人々が、なんとかその日その日を暮していけたのだろう。  そして祭の本質的形態が行列・練り歩きであったから、それは一面で支配層に対する大きな示威運動ともなりえた。だからプロセッションの主導権をめぐる暗黙の争いは、教会と庶民の間で絶えまなくつづけられていた。オルギー的乱舞と陶酔のうちに、爆発的行進へと絶えず発展してゆく可能性を秘めた庶民の祭に対抗し、教会は舞踏を禁止し、いわゆる昇天祭や聖体祝日の華麗なけばけばしい威圧的行列を対置しようとする。  こうした教会の努力にもかかわらず、厳粛であるべきプロセッションにおいてさえ、純粋に神を敬うための行列と考えていなかった者が数多くいたことは、一九世紀の歴史家クリークが伝えている。多くの者は、聖職者ですら行列のなかにあってペチャクチャおしゃべりをし、笑ったり、ふざけたり、悪態をついたりしていた。一三二七年のフランクフルトのリープフラウエン律院の戒律ではこのような行動が厳しく禁じられている。  宗教改革の浸透とともに、市民の間から神聖めかした[#「めかした」に傍点]教会側のプロセッションに反対する運動が盛り上ってくる。その結果フランクフルトでは、一五二七年には一般的な祭の形態としては行なわれなくなってしまう。教会当局と祭の形態をめぐって対立した市民は、祭の当日も仕事にいそしむことによってプロセッションをボイコットし、実質的にはそれを教会内部だけの営みにまでおし込めることが出来たのである。しかしそれと同時に庶民の始源的な叫びであり、日常の鬱屈した生活からの瞬時の解放でもあった祭のもうひとつ[#「もうひとつ」に傍点]の形態も弾圧されてしまった。一五三九年、ニュールンベルクのシェムバルトと呼ばれた風刺劇のなかで、当時説教壇上からカーニバルを暗黒のカトリックの遺物として激しく攻撃したアンドレアス・オジアンダーが風刺の対象とされるに及んで、市参事会はあわててシェムバルトそのものを永久に禁止してしまった。  こうしてプロテスタント地域における「近世」が幕を開く。その「近世」における下層民の生活の在り方はどのようなものであったのか。それを扱うことは本書の枠をはるかに越えてしまうが、実質的には一九世紀中葉にいたるまで中世社会における下層民の在り方とまったく変らなかった、という結論だけここで先取りしておこう。  これまで述べてきた庶民の祭の在り方をみれば、子供の十字軍やエルフルトの子供たちの舞踏行進が、庶民の鬱屈した日常生活からの瞬時の解放としての祭の延長線上にあったことが容易に推察出来るだろう。日頃の苦しみが深いだけに、大人は祭の興奮のなかにわれを忘れてのめりこんでゆき、子供のことなどは忘れてしまう。子供も祭の喧噪のなかで大人以上の興奮につき動かされ、とどめる者がないまま危険な行動に駆りたてられてゆく。  このように中世における庶民とその子供たちの社会的・心的境位から〈ハーメルンの子供たちの失踪〉の背景を究明しようとする際に、注目すべき仮説としてヴォエラー女史の「遭難説」がある。本章の最後にこの説をみておくことにしよう。  ヴォエラー説にみる〈笛吹き男〉[#「ヴォエラー説にみる〈笛吹き男〉」はゴシック体]  東ドイツ植民説においては、ヴァンの理論でもドバーティンの解釈においても、〈笛吹き男〉が主役となっているが、〈笛吹き男〉の社会的地位の低さ故に、〈笛吹き男〉を主人公とすべきではないと考えるのが東ドイツのヴォエラー女史である。  彼女はこの話を貫いている悲劇的な雰囲気は、何らかの不測の事故を予測させるものであると考え、東ドイツ植民のような計画的な行動がこの事件の背景とはみられないという。たとえ一部の伝承にあるように、両親たちが皆教会に行っていたとしても、一三〇人もの子供たちが誰にも気付かれずに町を出てゆくことは不可能だったろうし、リューネブルク手書本の伝えるリューデ氏の母の目撃は、まさに子供たちの出発が決して異常な出来事ではなかったことを示している。  そこでヴォエラー女史はヨハネ祭の日に、夏至の火を町から二マイルほど離れたポッペンブルクの崖の上に灯す習慣があったことから、子供たちは大勢で祭の興奮のあまりこの火をつけに出かけ、その湿地帯にある底なし沼にはまり込んで、脱出できなくなったのだと結論した。  ただしヴォエラーは前節で私が扱ったような、下層民の社会的在り方や祭についての考察からこのような結論に達したのではない。ヴォエラーがポッペンブルクでの子供たちの遭難という推定をする端緒となったのは、リューネブルク手書本におけるコッペンなる地名であった。  すでに早くから研究者はコッペンがどこかを探し求めてきた。例えばヴァンは、現在は鉄道建設のため平地になってしまったかつての丘であり、それはハーメルン市東方のアフェルデ村のあたりの市の境にあったと考えているし、シュパヌートはハーメルン北東部にあるバスベルクという山の麓とみている。だがヴォエラーは、伝説の核心となるべき歴史的事件が市壁のすぐそばで、市民の視野のなかで起ったはずがないと考える。ここには事件の核心が当時すでに謎であったからこそ、その事件が伝説になりえたのだというヴォエラーの基本的な考え方が反映している。  そこでヴォエラーは(一)かつて、あるいは現在もコッペンと呼ばれ、(二)子供でもハーメルンから歩いてゆける距離にあり、(三)不幸な事件を起しうる、ような三つの条件を備えている土地を探し求めた。そしてそのような土地を発見したという。  それはコッペンブリュッゲと呼ばれ、ハーメルンの東方一五キロの地点にある標高四〇二メートルの丘である。ここには古ゲルマン人が犠牲を捧げる儀式を行なった湿地帯の窪みがあり、一三〇三年にはシュピーゲルベルク伯がイト丘陵とダイスター丘陵の間の湿地帯に城を築いてから、その城もコッペンブルクと呼ばれた。このあたりは悪魔の台所という名で知られ、その名に象徴されるように、前史時代からの祭祀・埋葬等が行なわれていたが、しだいにデーモン化され、恐れられる土地に転化していった場所であった。この窪地は幅一五〇メートルほどで、崖は一五〇メートルもそそり立っており、背後は三〇メートルほど突き出たオーバーハングとなっている薄暗い一角だった。北側と南側は砂岩が長い年月の間に風化して崩れ、倒木とともに堆積していた。風化が進んでいなかった数百年前までは、この崖はもっと深かっただろうといわれ、その堆積は八メートルに達しているとみられている。崖は大部分が苔で覆われ、羊歯《しだ》やこみやかたばみ[#「こみやかたばみ」に傍点]が生い繁り、全体として薄暗く不気味な印象を与えるという。崖の険しいところは今でも危険なほどで、この地帯にしばしば霧が発生するため、ますます危険なところとなっていて、実際多くの人が落ちて死んだといわれている。この前キリスト教時代からの伝説に挑んで、神聖たるべきこの祭祀場所に城を築いたシュピーゲルベルク伯にその災難の責任が転嫁されていた。別の伝承によると、この城には伯を罰するために白い着物を着た女の幽霊が夜になると現われ、不幸を予言したという。これなども古来の儀式の場によせる人々の畏怖心の表現とみることも出来よう。この悪魔の台所から約一キロ離れたところにあるメンヒシュタインには、イト丘陵の西にあったベッシンゲン村から魔術師が出没したともいわれる。  この崖は少し登らねば見えず、そこから山という名称が生じたという。この少し登ったところが旗岩(ファーネンシュタイン)と呼ばれ、そこに夏至の日に火を灯す行事があった。そしてその行事こそ、まさに若者たちによって伝えられてきた伝統なのであった。子供たちもその行列に参加したのであろうし、この古来の民族信仰の犠牲を捧げる場所は〈笛吹き男〉たちにとっても興味あるところであっただろう。なぜなら次章で詳しくみるように、遍歴楽師の一員であった〈笛吹き男〉は教会から締め出され、キリスト教会の救いには与れない除け者であって、その多くはこの時代にはまだ古来の神々や異教の信仰を保持していたと考えられていたからである。  ヴォエラーはこうして、子供たちの失踪がのちの伝承にみられるように、痛めつけられた遍歴楽師の復讐であった可能性も否定してはいないが、同様な脈絡においてヨハネ祭の興奮が子供たちにもうつった可能性もある、としている。いうまでもなく私はこの可能性の方をとる。当時の農村や都市の下層民の日常生活と、祭におけるその解放された姿を知る者にとっては、たとえ直接的証拠はなくてもその可能性が一番大きいと考えられるからである。  ところでヴォエラー説のなかで重要なのは、中世において〈笛吹き男〉の属する遍歴芸人の階層が、教会や社会から差別された賤民であり、悪行の象徴としてあらゆる不幸な事件の責任を転嫁されていたということの指摘である。したがって中世においては〈笛吹き男〉の行為には動機づけは不要とされていた。  かつて秋田の子供たちが「親のいうことをきかないとなまはげが来るぞ」といって親に脅かされたように、また泣き叫ぶ子供たちが「人さらいが来るぞ」といって脅かされたように〈笛吹き男〉に象徴される遍歴芸人は子供と親にとってなまはげや、人さらいと似通った存在であった。人さらいは戦前の日本の子供にはサーカス小屋と結びついたものとして理解されていた。サーカスの賑やかなジンタの響きが聞えてくると、ソワソワして落着かず、奇妙な動物を天幕の隙間から覗いたりしながらも、日頃親から聞かされている「人さらいの話」や、少年少女向きの小説で読んだ「サーカスに売られた子供の話」などを思い出し、こわいものみたさにゾクゾクした子供時代の経験をもっている人は多いだろう。  中世ヨーロッパの遍歴芸人の多くも、奇妙な動物を連れて各地を放浪していた。町に何か不幸な出来事が起り、原因が明らかでない時には、すでに去ってしまった遍歴芸人にその原因を求めようとすることもしばしばであったとみられる。〈笛吹き男〉を犯人に仕立ててしまえば、それでもう事件は解決ということになってしまう。ハーメルンにおいても、市民の不注意の結果が〈笛吹き男〉のせいにされたにすぎないとするヴォエラーは、この伝説のなかに〈笛吹き男〉がいなくてもよいと考えるのである。たしかに『パッシオナーレ』の記述には〈笛吹き男〉は登場していない。  ところが一五世紀末から一六世紀にかけて、ルネッサンスや宗教改革に代表される人文主義思想の波の中で、一般大衆は旧教会の厳しい絆からしだいに解放されはじめた。それにつれて多くの遍歴芸人の社会的地位も高まり、〈笛吹き男〉もかつてのような悪行の象徴ではなくなるとともに、子供たちの失踪の原因を〈笛吹き男〉に帰するのは具合が悪くなってきた。そこで新しい動機づけが必要となり、当時の農民戦争にみられたような、社会的対立のなかでの市参事会に対する下層民の反感も与って、いわゆる「市参事会の裏切りに対する鼠捕り男の復讐」という伝説が形成されたのだという。  それでは、なぜこの出来事が今日まで伝説として伝えられてきたのか、という点について、ヴォエラーは次のように解説している。すなわちこの事件の知らせが、おそらく難をまぬがれた少数の子供によって伝えられたにもかかわらず、幼い子供の説明はたどたどしく、また自分の子供の安否を気づかう親たちが激しく問いつめたために、戻ってきた子供も恐怖のあまり唖になるしかなかった。いうならば、事件発生当時からすでに事件の全貌をつかむことが困難だったのであり、そのことがかえって人々の想像力をかきたて、様々なファンタジーを生み出してきたのだというのである。  このようにみてくる時、一三〇人の子供が同時に沼地に沈んでしまうという、容易には信じがたい出来事であるにせよ、ヴォエラー説にはかなり真実に近いものがあることは否めない。  たとえ宗教的な行事とはいえ、それが異常な興奮状態のなかで営まれるということは、その背後における当時の社会生活の厳しさを予想させるものである。生活難、将来への不安、家族の者の生命に対する心配などが、多くの人々の念頭から去りえないという状態が、前提としてあったことを視野のなかに入れておかなければならない。だから沼地に沈んだという単なる事故のようにみえる事件でも、犠牲者が異常に多数である限り、その背後には必ずその時代の庶民がおかれていた生活の厳しさがあったのではないだろうか。さもなければ、ただのローカルな事件が七〇〇年近くたったのちまでも語り伝えられ、全世界にあまねく知れわたるという事態は考えられないからである。  親自身が飢えていた時代に、子供を飢死にさせた親はその傷を終生忘れることはないだろう。親たち自身が無自覚の底において、この世の苦しみから逃れたいという衝動にかられながらも、辛うじて毎日を送らなければならなかった時に、たとえ事故にもせよ多数の子供たちをあの世へ送らなければならなかったとしたらどうだろう。その痛みは時代を越えて語り伝えられてゆくに違いない。後世の人々はそれぞれのおかれていた時代の社会的・心的境位のなかでこの伝説を受けとめ、その内面からの要請に応じてこの伝説を変容させていった。そしてこの伝説の変容過程において、最も大きな役割を演ずることになるのが遍歴芸人としての〈笛吹き男〉のイメージなのである。 [#改ページ]  第五章 遍歴芸人たちの社会的地位  放浪者の中の遍歴楽師[#「放浪者の中の遍歴楽師」はゴシック体]  これまでのわが国のヨーロッパ史の叙述においては、中世は農民が土地に緊縛されていた時代として描かれ、都市の擡頭を促す遠隔地商人の隊列が現われるまでは、移動する人間集団の群はほとんどみられず、全体として動きの少ない社会としてとらえられてきたようにみえる。  しかし領主文書や官庁文書から離れて当時の人々の書いた私的な記録などをみると、われわれの想像以上に様々な人間の移動があったことが解る。東ドイツ植民運動や十字軍のような大規模な人間集団の移動を別にしても、一所不在で常に都市から都市へ、村から村へと渡り歩いて暮しを立てるしかなかった多くの人々がいた。これらの人々は土地を持たず、それ故にひとつところに定住することが出来ず、その結果土地所有が社会的価値の源泉であった当時の社会から除け者にされ、差別された存在であった。  このような人々には芸人、楽師、放浪乞食、娼婦、破戒僧や尼、放浪学生、犯罪人、都市や農村から追放された者などがいた。ドイツの諷刺詩人トーマス・ムルナー(一四七五頃〜一五三七)はこうした放浪者の群を詳しく叙述し、二五種類にも分類しているが、そのいずれにも共通していることは、彼らが生まれによって、あるいは何らかの運命によって、当時の「正当的」社会秩序からはみ出してしまっていた点である。  世俗の支配・共同体秩序からも、教会の懐からも閉め出されてしまった人々がどんな悲惨な生涯を送らなければならなかったか、わが国の村八分の例をみるまでもなく、容易に想像しうるところである。こうした人々についてわが国ではほとんど紹介されていないが、西欧ではすでに一九世紀以来かなり研究が進められている。  当時の放浪者のなかには、後にセバスチアン・ブラント(一四五七〜一五二一)が『阿呆船』のなかで描写したように、詐欺師的な者も多く、トーマス・ムルナーなどの人文主義者の側から当時の社会の腐敗の現われとして痛烈に非難されている。しかしすでにみたところからも容易に推測しうるように、これらの下層民の詐欺行為などは、むしろ差別の結果なのであって原因ではない。こうした放浪者のなかに各地を遍歴する楽師の姿もあった。  中世の都市や農村の祭の時に、どこからともなく現われては人々とともに唱い、ひとときの慰めを与えては、どこへともなく去っていった遍歴楽師。彼らは一体どのような存在なのか。この問に一義的に答えることは難しい。彼らはひとつのまとまった身分を形成してはいなかった。王侯の前で演奏していた者があるかと思えば、村々の農民の祭にささやかな演奏で人々を楽しませてもいた。彼らの演奏した曲目に楽譜は残されていない。そもそも彼らの音楽はほとんどみな即興曲であり、いうならば近代の作曲家が、孤島にこもって自然や世界を相手に楽譜を書きあげるのとはまったく異なって、常に聴衆のなかで、聴衆との直接的な触れ合いのなかで彼らの音楽が生み出されていたのである。  彼らの出身についても様々な説がある。ある人々は古代ローマの俳優(ミムス)、手品師、軽業師に起源を求める。民族移動の嵐のなかで、ローマやその周辺(リーメス)の都市の劇場が焼失し、働き場所を失った俳優たちが村々やゲルマン諸部族の陣営でラベリウスらの作品を演じてゆくうち、言葉の障害から音楽を主とする職業に転じていったとみている。  またゲルマン時代の英雄叙事詩を謳った詩人(エピカー・スコープ)がこれらの遍歴楽師の先祖だとみる者もいる。このいずれの説にもいまだ最終的な結着はつけられていない。  プロコピウス(五世紀末〜五六五)が伝えているように、ゲルマンの一部族ヴァンダル族も踊りと音楽をとりわけ好んだし、西ゴート王テオドリッヒ二世も食事の際にこれらの俳優・歌手を侍らせたという。これらのゲルマン時代の英雄叙事詩人と、元来ギリシャ・オリエントの系譜をひくローマの踊手、俳優、歌手などが初期中世に合流して、いわゆる遍歴楽師の群を形成していったとみられる。  彼らがなぜ遍歴・放浪の生活を送らなければならなかったのか、という点についても一義的な答はない。しかし古代ローマの俳優たちが必ずしも遍歴していたわけではないことを考え、また中世の遍歴楽師の多くが遍歴・放浪をやめて定住しはじめるのが一三世紀から一六世紀にかけてであり、それ以後はわずかの例外を除いて、定住した楽師としてその職業身分を得てゆくことを思い合せると、おのずから遍歴の理由が推測しえよう。  すなわち彼らが遍歴・放浪していた時期はローマ帝国の没落から一二、三世紀以降の領域支配圏の成立・領邦国家の確立までの時期に当り、いうならば大都市や宮廷を中心とする中央集権国家が成立していなかった時代に相当する。  遍歴芸人の定義に「グオト・ウム・エーレ・ネーメン」という言葉がある。これにはいくつかの解釈があるが、かつては名誉の代りに金・物を得ること、歌を唱ったり、身体を使って見世物をして代償(金)を得ることと解釈されていた。しかし今では称讃に対する報酬を得る者という解釈が一応通用している。 [#挿絵(img/fig37.jpg)]  いずれにしても遍歴芸人は報酬を得てその芸を売る者であり、一定の観客・聴衆がいなければならなかった。しかしローマ帝国の没落後、そのような観客・聴衆を大規模かつ持続的に動員することは困難となり、芸人も観客を求めて各地を巡業しなければならなくなった。ドイツのように、中世を通じて国王の居住地たる首都が存在しなかったところでは、まして彼らの生計の資を一定の土地で得ることは難しかったであろう。彼らの遍歴・放浪の原因のひとつはこうして当時の国家・社会制度の側から規定されていたとみられる。それに加えて教会の側からの蔑視・非難がなおさら彼らの仕事や定住を困難にさせていたのである。  そしてすでにこの頃から彼らの苦難の時代がはじまる。彼らは人間としての「名誉《エーレ》」をもたないものとされたからである。早くもルードヴィッヒ敬虔王(七七八〜八四〇)の勅令に、遍歴楽師は賤民としてあげられており、そのほとんどは放浪する人々であった。彼らは何の法的権利ももたず、したがって証人になることは出来ないとされている。もちろん盗賊や窃盗のように、完全に権利と名誉を喪失しているのではなく、ある程度は認められていたといわれているが、実質的にはあまり変らなかったといえる。どうしてこのような差別が生じたのか。この点については、彼らが一定の土地に定住していなかったためだ、という説と彼らの職業が本来賤しかったからだという説とがある。教会はこのあとの立場に立っていたが、遍歴楽師の多くは後に定住するようになると、市民権を獲得し、名誉と権利を回復する。それは彼らの職業を放棄した結果ではなかったから、彼らが差別されるにいたったひとつの理由は彼らが定住していなかった(すなわち土地をもっていなかった)ことにあったと考えられる。土地所有が社会的序列の基礎をなしていた中世社会では、土地をもたないばかりでなく、農民のように「土地に緊縛され」てもいない存在は、まさに人間としての序列の枠外の者とみなされたのである。  だがそればかりではない。俳優や楽師は一方で古代の異教的文化を庶民のなかに生き生きとした姿で伝える存在として、教会にとってはキリスト教の普及の障害となったし、ゲルマン時代の英雄叙事詩人の存在も庶民のなかに生きつづける異教的伝統を呼びさます可能性をもつものとして、厳しく取り締られねばならなかった。キリスト教会がなお勢力を保っていた一五世紀まで、あるいはもっとのちにいたるまでこのような事情が放浪者や遍歴楽師の社会的地位を規定した大きな理由であったと考えられる。  そういう意味では教会の俳優・楽師批判が、すでにローマ末期にはじまっていることは格別不思議ではない。三一四年のアルルの教会会議では、車曳きと俳優はその職業に従事している限り、秘蹟に与れないとされているし、カルタゴ司教でローマ教会の組織化に功績があったキプリアヌス(二〇〇頃〜二五八)も同様に、俳優を教会が受け容れるわけにはいかないと語っている。『神の国』や『告白録』で著名なアウグスチヌス(三五四〜四三〇)も、娼婦と俳優には洗礼を許してはならないと述べ、たとえ間違って洗礼を受けたとしても、彼らは洗礼がもたらす救いの業には与れないとしている。アウグスチヌスにとって若い頃の放蕩時代の仲間であった娼婦や俳優は、まるで何の意味ももたなかったかの如くである。アウグスチヌスは俳優などに金や物を贈ることも大きな罪だといっている。このような見解は三〇五年のエルヴィラの教会会議でも確認されている。  演劇と同様に音楽も教父たちの嫌悪するところであった。アレキサンドレイアのクレメンス(一五〇頃〜二一一)は礼拝の際に笛、竪琴などのいかなる楽器も禁じ、合唱、舞踏なども許してはならないと述べている。笛などは偶像を礼拝する連中に委せておけばよいという。聖書の翻訳者として名高い聖ヒエロニムス(三四〇〜四一九)などは、若い娘には七絃琴、笛、竪琴などがそもそも何のためにあるのかも知らせてはならない、とまでいっている。笛や合唱、舞踏などがキリスト教以前の民族宗教に付随する異教的習慣である、という認識がその根底にあったことはいうまでもない。  こうした見解は三一五年のラオディケアの教会会議で明瞭に規定され、聖職者は結婚などのおめでたい会合においても、芸人たちが到着する前に退席しなければならないとされた。これはさらに教皇ハドリアヌス一世(在位七七二〜七九五)の教会法令集にとり入れられて法制化され、のちの規制に大きな影響を与えることになった。  カール大帝の七八九年の勅令においても、俳優は奴隷、異端者、異教徒、ユダヤ人らと同様に賤しいものとされ、同じ年に司教・修道院長などは猟犬、鷹、芸人を置いてはならないと定められている。このような規制はカール大帝の治世の末期には極めて精力的になされ、マインツ、ランス、トゥールなどの教会会議(いずれも八一三年)でも、アーヘン(八一六年)、パリ(八二九年)の会議でも禁制がくり返されている。  しかしこうした禁令がくり返し出されていることからみて、逆にそれらがあまり実劾をもたなかったことが解る。実際この頃から教会の理論と現実とは乖離しはじめていた。芸人たちも高位聖職者の館で歓迎されるようになり、周知の通り音楽もミラーノ司教アンブロシウス(三三九頃〜三九七)や教皇グレゴリウス一世(五四〇頃〜六〇四)などのもとで、教会の礼拝にとり入れられるようになる。マインツ大司教で聖人に列せられたバルド(九八一〜一〇五一)は芸人の諧謔を楽しんだが、それは彼の言葉によれば、芸人の貧しさを神のために憐んだからだという。このようにして芸人は聖職者の耳目を楽しませるようになり、褒美として馬や武器、衣類などを得ていた。こうした禁令無視は極めて一般的に行なわれたらしく、ケルンの聖エンゲルベルト(司教在位一二一六〜一二二五)は身にまとった衣服を遺産として芸人にではなく聖職者たちに遺したことが、伝記作者によってことさら称讃されているほどである。  修道院も例外ではなかった。メンケベルクが紹介しているエピソードによると、一三世紀前半にイギリスのオックスフォードの森で二人のフランシスコ会修道士がはげしい雨のなかで道に迷ったあげく、疲れ果ててベネディクト会修道院にたどりつき、なかへ入れて休ませて欲しいと門番にたのんだ。衣服が粗末で汚れていたために門番は二人を遍歴芸人と見間違え、院長にそう報告した。喜んだ院長ら修道士が皆集まっているところへ案内された二人の修道士は、芸人でないことが解ると、足蹴にされ拳骨の雨をあびせられたのち、直ちに追い出されてしまったという。  差別する側の怯え[#「差別する側の怯え」はゴシック体]  ところで修道院の門番ともあろう者が、たとえ雨に打たれ、汚れていたとはいえ、修道士を遍歴楽師と見間違えたということは、この時代の事情に明るくない者には理解に苦しむところである。しかし実際のところは門番が間違えたのも無理からぬ事情があった。  というのは遍歴楽師にはこの頃に新しい要素が加わっていたからである。  この時代の各地の修道院には、聖職者になるための勉学をつづけている修道士(学生)が多かったが、彼らはしばしば修道院を抜け出しては各地を放浪し、一種の社会問題となっていた。彼らの多くは歌を唱ったり、楽器を演奏したりして生活を立てていた。こうして遍歴芸人の群のなかに新たに放浪学生が加わったのである。修道院の学校にはしばしば聖歌隊養成のための機関が併設されていたから、歌を唱って生活することはこれらの学生にはさして困難ではなかった。特に一三世紀前半に設立されたソルボンヌ大学などからも、数多くの放浪学生(クレリキ・ヴァギ)がヨーロッパにあふれ、教会は彼らの「不行跡」を抑えようと様々な努力をしていた。  教会が皇帝権力との激しい闘争ののち、一応の勝者として、新たに擡頭してきた国家の後楯を手に入れるや、ザルツブルク(一二九一、一三一〇)、パッサウ(一二八四)などの教会会議での決議を、国家権力を背景にして現実に施行しうるようになった。教会はこうして修道院を逃れて自由奔放な生活を送っている学生たちを取り締ろうとした。教会も国家も放浪学生を支配権力にとって危険な存在として、修道院に戻し、「正当な」学問をするように命じたのである。  しかし戻らなかった学生も多く、彼らは苦しい乞食同様の生活に甘んじなければならなかった。修道院に留まり、あるいは戻った学生は立身出世の道を保障され、学生生活を享受することが出来た。彼らの誇らかな感情はケンブリッジその他の学生歌や「カルミナ・ブラーナ」などにみることが出来る。しかるに放浪をつづける学生の声は、かすかに「放浪生活」(ヴィタ・ヴァゴールム)などから洩れ聞えてくるのみである。彼らは教会からも国家からも弾圧され、寄るべき避難所をもたなかった。彼らを受け容れ、寝食を共にしたのはまさに市民権をもたなかった遍歴楽師たちなのである。モーザーがいうように、放浪学生は神学者のもとではなく、目に一丁字なき遍歴楽師と生活を共にし、自らも俗謡を唄い、庶民のなかに消えていったのである。  このようにして、遍歴楽師はますます「正当な」社会秩序の擁護者から非難される原因をかかえ込むことになった。エロイーズとの往復書簡で有名なフランスの大哲学者ペトルス・アベラルドゥス(一〇七九〜一一四二)なども高位聖職者が教会の祭日などに楽師を卓に侍らせ、夜昼彼らと共に楽しみ、贈物などをしていることを激しく非難している。アベラルドゥスにとっては遍歴楽師は悪魔の使徒に他ならず、貧困な精神を誘惑するために遣わされた者と考えられたからである。教会という、当時の権威の源泉がお墨付きを与えたのだから、遍歴楽師に対する一般の差別はとどまるところをしらなかった。アッシジの聖フランシス(一一八一〜一二二六)ですら、自分とその仲間のことを「主の道化師」と呼んだが、それはいうまでもなく道化師の身分を高めようとしたのではなく、すべての人々から蔑視されていた道化師の身分の低さを前提にして、自分たちの謙遜の深さを示そうとしたものであろう。  遍歴楽師たちは教会による救いの業に与れなかっただけではなく、世俗的な権利もほとんど剥奪されているに等しかった。法書でも遍歴楽師に何らかの損害が加えられた場合、「影に対する報復」が許されていたにすぎない。すなわち遍歴楽師は自分に損害を加えた人間の、地面に映った影に報復することを許されていただけなのである。もし遍歴楽師が不当に殺害されたとすると、その息子は代償として牛を条件つきで「貰える」ことになっていた。その条件というのは、油をたっぷり塗り込んだ新しい手袋をはめ、これも油をべっとり塗った牛の尻尾をつかみ、しかも一段と高くした滑りやすい台の上で鞭打たれて暴れる牛を支えることが出来た場合、というのである。  このような愚弄は遍歴楽師の社会的地位の低さや差別の実態をまざまざと示す、というよりは彼らを差別する側の人々の頽廃と貧しさをぞっとするほど明瞭に示しているのだが、同時にそうした人々のおりなす中世社会の心的構造の一端をものぞかせている。しかしその時の差別する側の顔つきは傲慢で、自分たちの身分・地位に安住した勝ち誇った者のそれではないだろう。遍歴楽師たちを愚弄する時、彼らは自覚されない何かに怯えているのであって、恐怖のあまり、恐ろしいものとして遍歴楽師の存在を靄のなかに定め、やみくもに愚弄の行為をくり返すのだ。その恐怖が実はおのれの生活への恐怖に根差していることに彼らは気付かない。遍歴楽師は悪行の象徴として、すなわち人々の故知れぬ恐怖の感情の捌《は》け口となり、おのれの恐怖を対象化し、転嫁しうる存在として設定されていたのである。  人々が生得の社会的身分に拘束されていた身分制社会においては、その身分を保障する社会秩序を揺がせかねない諸要因に対しては極めて苛酷な弾圧が加えられた。一三世紀末に遍歴楽師や放浪学生に厳しい弾圧が加えられたのも、旧来の秩序が揺ぎつつあったからである。都市の擡頭と市民身分の形成、貧富の差の増大、新しい国家権力の再編成(地域を一円的に支配する領域支配圏の成立と騎士身分の相対的低下)、聖職者身分の相対的低下などが背景にあった。自らの生活の基盤を奪われる不安にかられていた人々は、その不安の根源を理知的に認識することが出来ないまま、恐怖の感情を自分たちよりも下にあるとみなされていた人々に対する迫害によって、和らげようとしていたのである。  ある伯は遍歴楽師に、ビール樽を全部飲み干したら子馬を一頭与える、と賭をする。楽師が全部飲み干してしまうと、伯は楽師を拷問台に乗せて拷問した。伯はまわりの人々を見廻して、若い子馬 equuleus は拷問台 equuleus をも意味していることを解説する。ここでは知識は無知な人間を欺くための手段となっているだけでなく、自分をもいつわる手段となっている。こうした愚弄の対象となったのは遍歴楽師たちだけではない。  ヘルマン・コルナーの伝えるところによると、一三八六年の四旬節の前日にリューベックで「盲人競技」が行なわれた。リューベック市の都市貴族の子弟は一二人の健康な盲人を選び、食事や食物を与えて精力をつけたのち、兜と楯と棒を与え、市場に板を張りめぐらして作った競技場内に入れる。こうして競技がはじまらんとするときに、丈夫な豚をそのなかに放つ。豚はとんでもない戦闘のただなかにとび込んだことに気付くと、棍棒の間をギャーギャー鳴きわめきながら逃げまわる。ときおり棒で尻でもたたかれようものなら、跳びはねて盲人競技者の二、三人はなぎ倒してしまう。その相手方になって闘っていた盲人は、倒れたのは豚にちがいないと思って、おもいきり相手を打ちのめしてしまう。人も豚も疲れ果ててしまった頃をみはからって、豚に鈴がつけられる。こうしてついに豚は打たれたため、というよりは追い廻されて疲労のために倒れてしまう。こうして競技は終り、豚は皆に食べられてしまう。老いも若きも娘も聖職者も皆大喜びでこの競技を観戦したという。  遍歴楽師の芸を見に集まる人々の多くは、このような憂さ晴らしを求めていた人々だといってほぼ間違いがないだろう。だから遍歴楽師やその仲間は常に人々の注目を惹くような服装をし、生まれつきの片端な子供や人間、奇妙な動物などを連れて歩いていた。ルーカス・ファン・ライデンの銅版画でも明らかに小人とみられる人物が仲間に加わっている。おそらくこの夫婦はどこかでこの子供を貰いうけ、自ら育てたのであろう。われわれの子供の頃にも縁日などでこうした片端の子供の見世物がよくみられた。そうした見世物に集まる人々の心的状況は一四、五世紀のヨーロッパの市民たちとあまり変らないといえるだろう。 [#挿絵(img/fig38.jpg)] [#挿絵(img/fig39.jpg)]  実際一五世紀になると遍歴芸人の一部は、諸侯や聖職者の保護を受けるようになり、かなり大規模な「サーカス」的興行を行なうようになる。一四四三年にはフランクフルトに象が現われたし、一四五〇年には駝鳥がみられた。一四八三年にフランクフルトに再び象が連れてこられたが、その時の団長ハンス・フィルスホーファーは、皇帝とバーデン辺境伯から市長に推薦されてきたのである。一四六八年にネルドリンゲンに駱駝が来た時には、あまりに多くの人々が仮橋の上に集まったので橋が落ち、一三人の死者を出したほどであった。このように一四、五世紀の社会的不安と動揺のなかで、遍歴楽師・芸人たちはその存在価値を認められるようになり、その一部は聖職者や諸侯の保護を受け、「名誉」を回復してゆく。 「名誉を回復した」楽師たち[#「「名誉を回復した」楽師たち」はゴシック体]  諸侯や聖職者の保護を受けた楽師たちは遍歴をやめ、宮廷や教会などに住みつくようになった。そこで諸侯の子弟に楽器の演奏を教え、教会では教会音楽を営み、ときには競技や賓客の歓送迎、旅行、私闘などの際に演奏して花をそえた。トリスタン伝説にはこのような宮廷付楽師が描かれている。彼らは主人の憂さ晴らしをするだけでなく、ときにはいろいろなお家騒動の狂言回しの役割をも果した——ハムレットの劇中劇を想い出せばよいだろう——。彼らは諸侯の保護を受けることによってその「所有物」となった。一三一四年の文書によると、ブリクセン司教ヨーハンは宮廷付楽師を譲り受けている。彼らはこうして聖職者や諸侯の裁判権のもとに立つことによって、その「名誉」を回復したのである。 [#挿絵(img/fig40.jpg)]  こうして楽師は教会においても「名誉」を回復し、そのままで神の恩寵に与れるものとされるようになっていったのである。そのような変化をよく示しているものに様々な奇蹟物語がある。例えばグミュンドのヴァイオリン弾きの話では、ヴァイオリンを弾く以外何も知らない楽師が、聖母マリアの像の前で大変感動的な演奏をした時、聖母が男に金の上靴を与えた、とある。このような奇蹟物語のなかで最も有名なのがクレールボーの手品師の話であろう。  長年の間世界をまわり、跳躍や踊り、手品などで人々を楽しませてきた一人の手品師が、全財産をクレールボーの修道院に寄進してそこの助修士になった。男は手品以外何も出来ず、主祷文も使徒信経も天使祝詞も知らなかった。他の修道士がみな言葉と業によって神に仕えているのをみて、この男は神と聖母マリアに仕えるすべのないおのれの無力さを嘆いていた。ところがある日男は修道院にある聖堂の内陣の地下に高い円天井があり、そこに聖母像があるのを発見し、ミサの間そこで自分が習得した奇術で人知れず聖母マリアに仕えようと決心した。こうして男はくる日もくる日も、人目をしのんでミサの間に汗みどろになって聖母像の前で、一生かかって憶えた様々な軽業や手品を披露したのである。男がミサに出席しないのをいぶかしんだある修道士の通報で、院長がある日地下へ降りていった時、ちょうど男は自分の業に疲れ果ててぼんやり床に伏しているところであった。その時、天使たちにかこまれた聖母マリアが祭壇から男のところまで降りてくるのを院長はみた。聖母は自ら白い布で手品師の額の汗をぬぐったのである。しばらくのち男が病をえて死去したときにも聖母は現われ、男の霊を天国へ導いたという。  すでに一三世紀前半にこの話が伝えられている点に注目させられる。 [#挿絵(img/fig41.jpg)]  教会の側のこうした変化に対応して、一四、五世紀になると都市も楽師をかかえるようになる、諸侯の宮廷から多くの楽師が都市へ流出していった。しかし、それにも制約があって、諸侯のかかえる騎士の行事にはトランペットと太鼓とは不可欠であったため、喇叭《らつぱ》手と太鼓手だけは宮廷に残り、都市は一般にこの両者を置くことを禁じられた。都市の市民軍は笛吹きとホルン手、トロンボーン手を置くことが出来た。こうした事情のために宮廷おかかえの喇叭手と太鼓手は都市の楽師をみくだすようになってゆく。  宮廷付楽師の数は首府ではかなりの人数となり、一三九八年にウィーンのアルプレヒト四世の宮廷では総勢一六名で、すでに小オーケストラを編成しうるほどであった。これらの宮廷付楽師は一七、八世紀には上・下級の階層に分化し、ツンフトを構成していた。一八世紀の最盛期には軍楽隊を別にしてもドレスデン、トリアー、ケルン、マインツ、ミュンヘン、ウィーン、マンハイム、カッセル、ダルムシュタット、アンスバッハ、ヴュルツブルク、ハーグ、シュトゥットガルト、ブラウンシュヴァイク、ベルリン、ヴァイマール、ゴータ、ゾンダーハウゼンなどにあった。こうして彼らは諸侯の権威の膝下に入ることによって賤民としての地位を離れ、上流社会に食い込んでいったのである。  その他に遍歴楽師が賤民としての身分を脱却してゆく可能性は、都市に定住することにももとめられた。それによって市民としての名誉を獲得し、のちには文書の証人としても登場できるまでになる。楽師の市民化による身分の向上はすでに国家も奨励するところとなっていたとみられる。一二四四〜四七年の「ラント平和令」では「遍歴芸人が平和に生活しようとするなら、それぞれに相応しい場に留まるべきである」と述べられている。「ラント平和令」は形成されつつある領邦権力が対抗勢力を分断し、支配圏内の治安を確保するために出したものである。社会の底辺にあって常に流動していた遍歴芸人の群は、ともすると不穏な動きを誘発する起爆剤の役割を果しうる存在として、一定の秩序のなかに組み込まれねばならなかったことから、彼らの定住が望まれたのである。  しかし都市に定住したからといって、常に収入の道が開かれていたわけではない。冬になると手工業を営んでいたケースも報告されているし、四旬節の禁欲が厳しく強いられ、歌舞音曲が禁じられた時にも、彼らは手工業を営んでいたといわれる。  すでに一二七二年にザンクト・ガレン、一二八三年にハンブルクで遍歴芸人の定住が確認されているが、これらの都市に定住した楽師は都市の塔《トウルム》において警備にあたり、貴人の送迎の際には音楽を演奏したため、しばしば塔の人——トゥルマーと呼ばれた。 [#挿絵(img/fig42.jpg)]  一五世紀になると都市の上層市民は贅沢な生活を営むようになり、いたるところで華美な結婚式などが行なわれた。こうした結婚式には楽師は不可欠であったから、農村からも遍歴楽師が多数都市に入っていった。市当局は解放的な祭の雰囲気を醸し出す華美な結婚式を規制しようとし、多くの都市で結婚式規制令が出された。リューネブルク、ハンブルク、ブレスラウ、ブリーク、グロットカウ、アウグスブルクなどでは一三、四世紀に結婚式に四人以上の楽師を招いてはならない、と規定されている。バンベルク、エガー、ニュールンベルク、ローテンブルク、ミュールハウゼンでは最大限六人、フランクフルトでは一三五二年に楽師はまったく禁止され、比較的寛大だったレーゲンスブルクでは、一二人まで許可されていた。こうした上からの規制にもかかわらず、遍歴楽師は都市市民の生活に溶け込んだ存在として、やがて市内に家をもち、市民権を手に入れるようになってゆく。  最初は市参事会が市の行事のために短期間楽師を傭い入れていたものが、やがて定住した市民としてその存在が認められるようになると、正式にツンフトを形成するようになっていった。ツンフトを形成すると、当然楽師も親方、職人、徒弟の三階層に分化してゆく。一五四八、一五七七年の帝国警察法令では、これらの都市の楽師は「名誉」をもつ存在とされるにいたった。  もとより一八世紀にいたるまで、かつての賤民としての記憶は消滅はしなかったが、一五世紀末には教会による疎外の時代は終ったとみてよいだろう。のちの各都市におけるオーケストラの起源は、これらのツンフトにまで遡ることが出来るだろう。 [#挿絵(img/fig43.jpg)]  その他に諸侯の宮廷や都市内に定住することなく、特定の諸侯を守護者としてその証書を持ち歩くパトロン持ちの遍歴楽師も数多くいたし、さらに特定の領域内を活動の舞台として仲間団体を形成していった楽師たちもいた。後者は仲間団体を形成して、仲間の利益を守り、同時に敬虔な宗教生活を営むことによって、教会からの承認を得ようとするものであって、モーザーのいう弱者の防衛のための団体形成であった。こうした団体の最古のものは一二八八年のウィーン、一三一〇年のルッカ、一三二〇年のレーゲンスブルクにみられた。そして多くの場合、団体の頂点に楽師の王(シュピールケーニッヒ)がおかれ、楽師の王の上には、この世界で有名なエルザスのラッポルトシュタイン伯らが守護者としており、年に一回楽師たちの会合・裁判が開かれた。ゲーテが『詩と真実』第一部第一章で本来楽師の裁判とは関係のない出来事を誤って「楽師の裁判」としているが、これはフリースの『いわゆる楽師の裁判について』(一七五二)の誤りを踏襲したにすぎない。それはともかく、ここにみられるような楽師の団体も各地に多数形成され、一八世紀にいたるまで存在していた。  漂泊の楽師たち[#「漂泊の楽師たち」はゴシック体]  このような経過はもはや近代音楽史の領域であり、私のような素人が安易に口をはさむべき分野ではない。ただ本書の本題との関連において指摘しておかなければならないのは、以上のように教会、諸侯、都市、団体などに賤民的地位からの脱却の機会を求め、それなりに成功した近代音楽の先駆者の背後に、依然としてこれらの上昇してゆく人々からとり残された遍歴楽師の群がいた、という事実である。  下手なアマチュア(シュトゥンパー)とか居酒屋の楽師(ビアフィードラー)といわれた遍歴楽師の一群は、近世に入ってからも放浪学生の群を加えて、他の「名誉を回復した」楽師たちから区別され、「名誉をもたない」楽師としての地位に留まっていた。このような遍歴楽師は一六一八年からはじまる三〇年戦争の社会的不安のなかで急速に増加し、「名誉を回復した」楽師の地位を「脅かし」つつあった。一八世紀になってもこれらの遍歴楽師の数は減少せず、正当派[#「正当派」に傍点]楽師の憤激をかっていたことは、ヨハンネス・ペーター・ベーアが一七一九年に書いた書物『音楽論議』のなかに露骨に表現されている。少し長いが引用しよう。 [#2字下げ] この臭気を放つ水溜りをきれいにさらえ、その毒気を放つ蒸気が高貴なバルサムの香りを汚さないようにしなければならない。それには各地の当局が常に警戒を怠らず、音楽の花園から有害な植物を切株ごと根こそぎ掘り起し追放することによって、最も適切な処置がとれるだろう。……奴らは二人、三人、四人と徒党を組み、それぞれがフィーデル(ヴァイオリンの一種)をマントのしたに持ち、国中あちこちの貴族の館をうろつきまわっては、「古将のヨーハン・デ・ヴェルトの騎士の闘い」を謡い、その間に盲目のヴァレンティンのリトルネロを弾く。奴らは一言でいえばまことに下手くそであり、奴らの唯一の讃美者である鎖につながれた番犬まで目をまるくしたものだ。そのうえ、これらの居酒屋のフィーデル弾きは教会などでも信仰の念が乏しく、主祷文を唱えることもめったにないばかりか、たいていは説教の間ペチャクチャおしゃべりをしている。……総じていって、奴らは品のない猥談や悪戯など、キリスト教徒が教会の外でも悪しきこととする所業を教会のなかで行なっている。……なぜお前たちはそんなに爪を長くのばしているのだ、と聞くと、奴らは竪琴を弾くのに都合がよいからさ、と答える。奴らはまるでいつでも飢えているかのように、決して節食などはしない。奴らのフィーデルには、チューリンゲンの森の一一番目のハルツ山地よりもたくさんの松脂(ハルツ)がべとべとに塗りたくってある。なぜ奴らは好んで廏《うまや》に寝るのか。余は最近調査した結果、その理由を発見した。奴らはそこで馬の尻尾の毛をつかって儲けようとしているのだ。だから奴らのフィーデルの弓には黒や灰色、赤などの色が混っているのだ……  このような大人気ない罵詈雑言を浴びせられていた未組織の遍歴楽師たちは、一体どのような人々だったのだろうか。  一七〇六年にミュンヘンの楽師組合が出した文書によると、当局のいわゆるもぐり[#「もぐり」に傍点]の楽師とは学生、あるいはかつて学生であった者、かつては楽師組合に属していた者、当局の認可なしに結婚した者などがほとんどを占めているという。一七九六年にもミュンヘンの楽師組合は、学生が商売の邪魔をしている、学生のために職を奪われてしまう危険にさらされている、とくり返し訴え、学生は本来の学業に戻るべきである、と主張している。しかしモーザーは学生による競争は極めて稀であり、むしろ学生が市の楽師に仕事を与えていたほどだと書いている。一七一九年にはミュンヘンだけでこれらのシュトゥンパーのグループは二〇を数え、それに反して市民権を得た楽師の組合は七つしかなかった。学生たちは大変安く演奏したので註文が多く、それを組合の楽師にも廻したのだという。いずれにせよこうしたことは、楽師のツンフト組織もすでに崩壊しつつあったことを示している。  組織に加わらなかった遍歴楽師たちは、仲間が諸侯、都市、団体のなかに賤民的地位から上昇する機会を求め、見出していったときでも、一八世紀においてさえ相変らず中世と同じように放浪学生を受け容れながら蔑視され、それでいて、当局や社会的に上昇した楽師たちから恐れられていた。当局も「正当派」楽師も社会の秩序の外にある彼らを恐れたが故に、蔑視し、彼らの使用する楽器を制限した。最後には風笛やポーランドボックまでも禁じられ、手廻しオルガン、アコーディオン、オカリナしか許されなくなった。 [#挿絵(img/fig44.jpg)]  シューベルトの「冬の旅」の最後の曲に登場する「手廻しオルガン弾きの老人」も、こうした社会的弾圧と蔑視のなかに生きながら、人を蔑視し、差別するような内面的な弱さをもっていなかったが故に、社会と人生を透視し、苦しむ人間、差別されている人間、真実を求め、それ故に周囲から孤立してゆく人間に常に慰めを与えつづける懐しい存在として、私たちの記憶の底に残っているのである。〈笛吹き男〉のイメージは時代によって、また人によって異なった姿で現われる。一三世紀末はいずれにしても遍歴楽師にとって最も厳しく、社会的地位が最も低い時代であったから、生活苦に喘ぎ、差別の目でみられていた都市の最下層民やその子供たちとの間に何らかの共通したつながりを想像することは格別不可能ではない。これらの遍歴楽師こそ、祭の際になくてはならない存在だったからである。  日々の生活の苦労から瞬時の解放を求める祭の興奮のなかでは、遍歴楽師の身分の低さは問題にもならなかっただろう。むしろ祭の進行や興奮に大きな役割を果す存在として、人々の、とりわけ子供たちの注目を集めさえしただろう。〈一三〇人の子供たちの失踪〉という歴史的事件そのものには、遍歴楽師はほとんどかかわりをもたなかった、と私には思える。彼らが関係していたとすれば祭のなかにおいてであり、それは事件の直接的原因ではなかった。だから中世史料においては歴史的な存在としての〈笛吹き男〉はほとんどその具体的な姿をみせていないのである。それにもかかわらずこの事件がのちに〈ハーメルンの笛吹き男〉の伝説として知られるにいたったのは、遍歴楽師の社会的地位が近代にいたるまで疎外されたものであったという事実と、彼らを差別の目で眺め、悪行の象徴とみたてた人々や「学者」たちがいたからなのである。 [#改ページ]   第二部 笛吹き男伝説の変貌 [#挿絵(img/fig45.jpg、横117×縦117)、下寄せ] [#改ページ]  第一章 笛吹き男伝説から鼠捕り男伝説へ  飢饉と疫病=不幸な記憶[#「飢饉と疫病=不幸な記憶」はゴシック体]  一二八四年六月二六日に実際にどのような事件が起ったにせよ、時とともにその事実は忘れられてゆく。そして事件の記憶がその時々の人々の生活に触れてくる、その次元でこの記憶は新たな装いをつけて人々の胸のなかに生きつづけた。この事件[#「事件」に傍点]が後世の学者によって、外の世界との関連において様々に位置づけられていったのとはまったく別な次元で、この記憶[#「記憶」に傍点]は庶民のなかで育まれていった。この伝説は世のお偉方がどういおうとも、ハーメルンの市民にとってはあくまでも彼らの町の出来事だったのであり、しかも彼らにとって痛みなしには思い出せない傷として、語り伝えられてきたからである。  ハーメルンの人々がこの事件を想い起すとき、回想の糸は直ちにハーメルン市が律院支配から独立してゆく苦難の過程へとつながってゆき、同時に市が経済的隆盛を迎えつつあるなかでの貧富の差の拡大、さらにヴェルフェン家の支配下に屈服していったいきさつへとつながっていっただろう。こうした回想の糸は、それぞれの人間の置かれていた社会的地位によっても様々な方向にたぐられていった。一五、六世紀においても下層民の貧困はまったく解決されていなかったし、極端にいえば全ヨーロッパにおいてすら、一九世紀にいたるまで飢えの問題は解決されていなかったのである。経済史家アシュトンが適切に述べているように、一八世紀前半において、当時ヨーロッパの先進国であったイギリスにおいてすら、間歇的にやってきた飢饉によって莫大な数の生命が奪われている。中世ヨーロッパにおいては、ほとんど毎年どこかで飢饉、疫病、不作等がくり返されていた。  クルシュマンが作成した飢饉の分布を示す表をみてみよう。 [#挿絵(img/fig46.jpg)] [#挿絵(img/fig47.jpg)] [#挿絵(img/fig48.jpg)]  ハーメルンはこの表では北ドイツ内陸部に入るが、そこでは一三世紀だけで一二〇五、一二一七、一二一八、一二二五、一二二六、一二七一、一二七二の各年、一四世紀初頭には一三〇九、一三一五、一三一六の各年に飢饉が起っている。直接この地方に起った飢饉だけでなく、周辺地域に起った飢饉もまた大きな影響を及ぼした。投機、買占め、飢饉の起った地域への輸送等によっても価格が急騰し、庶民の生活は脅かされたからである。実際、表に現われた飢饉そのものというよりも、それによって惹き起される恐怖やその結果としての価格の騰貴の方が庶民の生活にとって決定的な打撃となった。飢饉は時とともにおさまっても、一度上った価格はなかなかさがらないからである。クルシュマンが述べているように飢饉や不作の地域にも穀物の貯蔵はかなりあった。ただ価格が庶民にはとうてい手が出せないほど高かっただけなのである。  飢えた貧民は『クサンテン年代記』によると犬、猫、驢馬、馬を食べたし、『コルマール年代記』によると狼、蛙、蛇も食べたという。マグヌス・フォン・ライヒャースベルクの伝えるところによると、一一四五年に飢えた人々はときおり牛から血を搾っては飲み、生きながらえたという。炭水化物については貧民は葡萄酒の澱をパン代りとし、木の根や野草、木の皮を食べ、あげくには毒草を食べて命を落す者もいた。フランスでは八四三年に泥にわずかの粉を加えてパンを作ったというし、マルチン・フォン・トロッパウの伝えるところによると、ハンガリーでは飢えた人々がひとつの山の地を食べつくしたため、平地になってしまったという。おそらくこれらの土は私たちも第二次大戦中や戦後の食糧難の時代に経験した、ベントナイト(火山灰)入りのビスケットやパンのようなものであったのだろう。  飢えはいつの時代にも人間をギリギリの状況にまで追い込んでしまう。一三世紀を通じて中部ヨーロッパで人肉食が行なわれたことは確かである。確実と思える記録だけでも七九三、八六八、八六九、八九六、一〇〇五、一〇三二年にドイツ、フランスに、一〇八五年にはイタリアで報告されている。一二三三年と一三一五年にリヴォニア、一二四一〜四二年にハンガリー、一二七七年にシュタイエルマルクとケルンテン、一二八〇〜八二年にボヘミア、一三一七年にポーランドとシュレージエンにも報告がある。これらのなかには死人の肉を市場で売ったという例も含まれている。 [#挿絵(img/fig49.jpg)]  こうして飢えた人々は常に食物を求めて移動する。農民ですら家と耕地を捨てて、あてのない放浪の旅に出る。飢饉の時にはこうして極めて多数の貧民が、全ヨーロッパを食物を求めてうろつきまわっていたのである。われわれは中世政治史や文化史のロマネスクやゴシックの建築に象徴される華麗な叙述の背後に、痩せさらばえ、虚ろな顔をして死にかけた乳児を抱いて、足をひきずるように歩いていた無言の群衆を常にみすえていなければならないのである。そのためには、ヴィポやオットー・フォン・フライジングなどを筆頭とする、いわゆる中世史の著名な歴史叙述者や年代記作者の記録にのみ頼るような研究手続きを改めなければならない。  彼らはもっぱら大状況の国家的事件のみを扱い、民衆の歴史には一顧だに与えていないからである。雹、不作、病気、飢え、経済の動きなども彼らの記録には無縁である。われわれの目を開いてくれるのはこうした著名な歴史叙述者ではなく、無名の修道士たちの書き遺した地域の年代記なのである。彼らは身のまわりに起った出来事を、自然現象も含めて詳しく書き記している。そこからわれわれは当時の庶民の生活の在り方を推察することが出来る。彼らの叙述のほとんどは同時代の目撃者として書かれ、その限りでかなり信用のおけるものなのである。  これらの素朴な修道士の叙述をみると、飢えた群衆はかなりの距離を食物を求めてうろつきまわったことが解る。一二八〇〜八二年のボヘミアの大飢饉の時には、飢えた難民はドイツのチューリンゲン、マイセンその他の地方にまで辿りついたという。また同じ頃に難民はポーランドのクラクフから、ロシアやハンガリーまでさまよい出ているし、一三一七年には西部ドイツから物乞いをしながら、一群がリューベックやバルト海沿岸まで辿りついている。一二世紀と一三世紀前半のオランダにおける飢饉と疫病、洪水などが東ドイツへの移民を生んだひとつの原因であったとも考えられる。一一四五〜四七年の第二回十字軍の直前にも飢饉が起っているが、十字軍と飢饉の間には密接な関係があったことが容易によみとれるのである。  飢饉、不作、疫病による人口の絶対的減少だけでなく、このような難民の流浪によっても一定地域の人口は急速に減少した。中世においてはこうした事態はすでにみたように繰り返し生じていたから、ハーメルンにおいても人々が同様な事態に遭遇し、飢饉、不作、疫病、難民の増大などによる人口の減少を経験するたびに、彼らのこうした体験の原点ともいうべき一二八四年の〈一三〇人の子供の失踪〉があらためて回想され、語りつがれていったと考えられる。リューネブルク手書本にあるように、ハーメルンの人々は日々の注目すべき出来事を「子供たちの失踪から……日」というふうに数えていたからである。  そのような例として、ドバーティンが一五〇〇年前後の市民の手紙二通を史料集におさめている。これはキリスト生誕より何年というふうに数える教会暦に対して、庶民が自らの体験から生み出していった庶民暦ともいうべきものであった。そして飢饉や不作等のありようは決して一様ではなかったから、その時々の新しい事態の展開のなかで、この「事件」の回想は新しい姿で語り伝えられていったのだろう。  しかし一六世紀中葉にいたるまでわれわれはその口伝の変化を辿ることは出来ない。すでに述べたように、一六世紀中葉にいたるまで前記三点以外に文書史料は皆無であり、この伝説はもっぱらハーメルンという小さな町のローカルな出来事として、市民の間で祖母から孫へと語り伝えられていったからである。一四九二年のコンラート・ボトスの『ザクセン年代記』でもこの伝説については何も触れられていない。  ところが一六世紀中葉になると、この伝説をめぐる環境は決定的に変化してくる。ひとつには宗教改革と農民戦争を出発点とする宗教的・社会的変動のなかで、人々の社会的環境も変化していったからであり、さらにドイツ・ルネッサンスを促進した印刷術の発展と福音主義神学とによって、歴史や自然現象に対する新しい見方が生まれていったからでもある。しかしまさにそれ故にわれわれの伝説研究は、この時代から現在にいたるまで宿命的な難問題に直面することになったのである。 [#挿絵(img/fig50.jpg)]  いうまでもなく伝説は庶民の間で語り伝えられていったものである。しかしひとたび知識階層に属する人間がそれを書きとめ、評釈を加えるようになると、そうした行為が庶民の口伝に影響を与えずにはおかない。いわんや伝説の解釈が庶民の宗教的教化や精神的訓育の手段とされるようになると、本来の伝説はその姿をまったく変えて現われることにもなる。〈ハーメルンの笛吹き男伝説〉もその例外ではなかった。この伝説をめぐって教会や市当局、学者の間で激しい論議が繰り返され、その議論にまき込まれるとわれわれは伝説というものの本来の姿を見失いかねない。  こうした状況のなかで伝説変貌のあとを辿るには方法はひとつしかない。すなわちこうした様々な議論や争いのなかでの伝説の変貌を、その背後に渦巻いている様々な人間の動きとにらみ合せながら位置づけてゆくという方法である。もとよりこの方法には史料的制約が大きく満足のゆくまで徹底出来ないとしても。あくまでも基本線として見失ってならないのは、庶民の伝えてゆく生きた姿での伝説と知識階層の世界像のなかにとり込まれた伝説との落差であろう。 『ツァイトロースの日記』[#「『ツァイトロースの日記』」はゴシック体]  このような観点からみて重要なのがバンベルクの市長代理『ハンス・ツァイトロースの日記』である。ツァイトロースと七八名のバンベルク市民は、一五五三年にブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルプレヒト・アルキビアデス(一五二二〜一五五七)とザクセン公モーリッツ(一五二一〜一五五三)との、いわゆる辺境伯の闘いに際して、アルプレヒトがバンベルク市に要求した軍税の人質として捕えられ、その帰路ニーダーザクセンを通って、ハーメルンの町で二、三日滞在した。この時に一三〇人の子供が失踪した伝説を耳にしたのである。虜囚であったツァイトロースはおそらく素朴な民衆から聞いたと思われるこの話を日記に記した。 [#2字下げ] この町からほぼ銃弾の届く距離のところにひとつの山があり、カルワリオと呼ばれている、と市民は語った。一二八三年に楽師とみられる大男が現われ、いろいろな色の混った上衣を身につけ、パイプあるいは笛を市内で吹き鳴らした。すると市内の子供たちが一緒に走り出し、いま話した山のところまで行き、そこで沈んでいった。子供二人だけが裸で戻った。一人は唖、一人は盲目であった。母親たちがわが子を求めてとび出し、追いすがるとこの男は、三〇〇年たったらまたやって来てもっと多くの子供を攫《さら》うぞ、と脅したという。行方の知れない子供の数は一三〇名であったという。この町の人々は男が再びやってくるといった三〇〇年後の一五八三年をあと三〇年と数えて、あの男がまたやって来る、と恐れおののいていた。  この史料の重みは口伝であった点にあり、しかも故郷へ戻ることを許された人質が、素朴な民衆から聞いた話を日記に記したという点にある。ツァイトロースはそれ以前にこの話をまったく知らなかった。彼ははじめて耳にしたこの話に深い関心を寄せ、日記に記したのだが、それは別に発表するためでも何かの目的をもって記したのでもなかった。実際ツァイトロースの日記は長い間バンベルクの文書館に眠っていたので、後の伝説の発達に何の影響も与えてはいないのである。  ツァイトロースが伝える話にじっと耳を傾ける時、われわれには一六世紀中葉においても、ハーメルンの庶民がやはり何かの恐怖・不安に耐えて暮していたことがおぼろげにみえてくる。  ハーメルン市は一五四〇年、すなわちツァイトロースが同市に滞在した一三年前に市参事会と市民のイニシアティヴに基づいて、すでにルター派に移行し、宗教改革を遂行していた。市の上層階級の子弟のなかにはドイツ各地の大学に通う学生も増加し、市内にも人文主義者がふえ、歴史家のいう「近世への序曲」がはじまっていたはずなのである。しかし自己を文章で表現することの出来ない庶民は新しい福音に基づく信仰でも、新しい教養から得られた世界像でもない、まさに三〇〇年前の「事件」を原点として現在の不幸をはかっていたのである。庶民はなおキリスト教以前の「呪術的・神秘的」な思考世界のなかに生きていた、ということも出来よう。  しかし三〇〇年前にひとたびこの町を襲った〈笛吹き男〉が再度現われ、より多くの子供を攫ってゆくかもしれない、という恐怖は単に庶民の思考世界の古さや前キリスト教的信仰の在り方を示しているというよりは、彼らの不幸が三〇〇年という時の変転にもかかわらず、癒されないままであったことを物語っている。  まず洪水による大被害があった。一五五二年一月にヴェーゼル河は大氾濫を起し、ヴェーゼル河にかけられていた石の橋も破壊され、町全体が浸水した。その時の水の高さは今日でもティエトーアの壁に刻まれている。また同じ年の夏には不作と価格の騰貴があいついで住民を襲い、一五五一年から五二年にかけては大火があり、一六〇軒の家屋が焼失した。この年の末にはペストが蔓延し、ハーメルン市だけで一四〇〇人の人命が失われてしまった。富める者と律院の修道士は、その間町から逃げてしまっていた。こうした災害をより耐えがたくさせたのが宗教戦争であり、一五五〇年から五三年にかけて戦闘はまさに市門の前で行なわれた。激しい宗教戦争のもたらした災害に加えて、宗教改革の遂行に伴う様々な軋轢があった。 [#挿絵(img/fig51.jpg)]  すでにみたようにハーメルンの町にはカトリックの律院があり、古くから大きな支配権を市民に及ぼしていた。いうまでもなく市の独立は律院からの独立でもあったのである。市参事会と市民が一五四〇年にルター派新教に移行した時、市は遂に宗教生活における律院の支配からも独立する宗教的武器を手に入れたのである。宗教改革とはこうした政治・社会的対立と分ちがたく織り合された宗教上の改革なのであった。だから宗教戦争が市の面前で銃火をかわし、洪水やペスト、火災で市にとってお先まっくらなほどの不運が、つぎからつぎへとおしよせてきた一五五一年から五二年にかけて、律院はカトリックにとどまっていた市民とともにこうした不幸は神罰の結果だと宣伝し、人々を恐怖のどん底におとしいれたのである。  不幸な事件の連続で平凡な日常生活を送ることが出来なくなっただけでなく、互いにすべてを知りつくした隣近所の者同士が二つの政治的・宗教的陣営に分断され、不信の感情をぶつけ合っていたのである。こうした雰囲気のなかでハーメルン市内で魔女裁判も行なわれていた。一五三二年四月二六日にエリーザベト・シュリューターという女が、プロテスタントの保護者でもあったエーリッヒ公の妃エリーザベトの殺害をはかったというかどで裁判にかけられ、自白させられた。彼女の自白によると、他の女とともにコルデンフェルトで雉鳩の心臓と猫の脳味噌を毒茸と一緒に煮て、人を使ってパンに塗らせた、というのである。蝮《まむし》と蟇《がま》の肝臓をとり、それを他の物と一緒に焼いて鍋に入れたともいう。シュリューターはもちろん殺された。その裁判記録には市民の間の興奮がまざまざとよみとれるのである(『ハーメルン史料集』五四二頁以下)。公妃エリーザベトは市民の敬愛の的であったから、公妃暗殺未遂犯人として魔女シュリューターを裁くことで、市当局は市民のやる方ない不満や怒りをそらすことが出来たのである。  リューネブルク手書本の末尾に記してあったバジリスク(竜)もこの頃再び息を吹きかえした。フィッシュフォルト通りの堀の下には竜が住み、有毒な息を吐き、それに睨まれた人間は死ぬ、と信じられていた。  ツァイトロースはこうした不幸な事件がまだ去りやらぬ頃にこの町に滞在していたのである。洪水、火災、ペストによる大量の人命の喪失は、それだけでハーメルン市民に過去の傷を思い出させるのに十分すぎるほどであった。  悲惨な運命に襲われた時、庶民はどのようにしてそれに耐えるのだろうか。彼らは自分たちの現在の不幸を過去の体験やいい伝えと比べてその深さを計るのである。ペストや洪水、火災で子供を失った親たちが互いにその不幸を語り合い、慰め合う時、話の行く先はかつてハーメルンの子供たち一三〇人が〈笛吹き男(悪魔)〉に連れ去られた事件であっただろう。子供の頃に父や母から寝物語に聞かされた伝説が異様に生々しく、わが身の出来事として迫ってきた。災難はこれで終りではないかもしれないのである。町中で一四〇〇人もの人が死んだ。明日は残された最後の末娘を死の手が襲うかもしれない。このような恐怖にかられていた時、かつての伝説は完了形ではなく、まさに現在進行しつつある出来事として人々の意識のなかで再現されたのであろう。 〈笛吹き男〉が大男となって母親たちの前にその姿を直接みせているのも、彼らの恐怖の切実さを示しているといえよう。ここに私たちは〈ハーメルンの一三〇人の子供の失踪〉伝説が庶民の間で伝承されてゆく典型的な動きをまざまざとみることが出来るのである。  ところでツァイトロースの伝える伝説では〈笛吹き男〉は大男とされ、母親たちに恐ろしい言葉を吐いている。ここでは中世史料にはみられなかった〈笛吹き男〉の魔術師的な姿が描かれている。素朴な日常的なイメージから非日常的な、魔術師的なものへの変貌は伝説の常であり、格別不思議ではないが、ここにもそれなりの舞台装置や事情がなかったわけではない。  ひとつの役割を果したのはコッペンなる山である。実際には低い丘にすぎなかったが、そこは初期中世以来処刑場であるとともに、その近くにキリストが十字架につけられたゴルゴタ(カルワリオ)の丘を模した巡歴路がつくられていて、キリスト教の神聖な場であると同時に、かつては古ゲルマン時代以来の原始的信仰の聖域でもあった。いわばキリスト教信仰と異教的伝統の接点として、この山は中世末の民衆にとって神秘的な存在であった。だから〈笛吹き男〉がこの山で消えたという記憶から容易に神秘化され、この伝説自体神秘的な神隠し伝説に転化していったと考えられる。  リューネブルク手書本では「上等な服を着た三〇歳位の美しい男」として描写されていたのが、一五七一年には「見知らぬ笛吹き男」となり、一五八八年には「いかさま師」、一五九九年には「魔術師」へと変ってゆく。こうした不幸な記憶を神秘的な話に変容させることによって、共同体の蒙ったかつての痛みはローカルな体験から普遍的な世界へと飛翔していったのである。 〈笛吹き男〉が魔術師的な姿を現わしてくることになるもうひとつの原因は、神学者や聖職者たちにあった。すでに述べたような、ハーメルン市内における新教と旧教との確執は全ドイツ、否、全ヨーロッパにわたる対立であり、しかも単に宗教上の論争であるだけでなく、政治・社会的な対立でもあった。カトリック信仰は民衆の魂の奥深くまでとらえていたわけではないが、初期中世以来長い伝統となって、形骸化したとはいえ、人々の日常生活の様々な形のなかにその伝統の力を及ぼしていた。新しい教えを伝えるルター派の神学者や聖職者たちは、単に宗教的な高次の議論だけでなく、こうした日常生活の規範を形成していたカトリックの秩序に挑戦しなければならなかったわけである。数えきれないほど多数の聖人とは一体何なのか、一年中絶えずつづけられる祭日は一体何のためなのかに、人々は疑問を抱きはじめていた。  こうした疑問の背後には律院がとり立てていた諸負担、秩禄、ミサ、贖宥、献金などの経済的な重荷があったことはいうまでもない。宗教改革の遂行によってこうした律院の支配をほぼくつがえすことは出来たが(律院の参事会員が全員ルター派になったのは一五七六年、律院が正式に解散したのは実に一八四八年であった。ドイツにおける「中世」はある意味で一九世紀までつづいていたのである)、それと同時にそれらに代る新しい日常生活の規範を与えねばならなかった。  権威づけられる伝説[#「権威づけられる伝説」はゴシック体]  ところで、宗教改革ののちにおける新しい日常生活の規範は、二つの強力な敵との闘争のなかで貫徹され、施行されねばならなかった。ひとつはいうまでもなく、中世以来長い間日常生活の外的規範を形成してきたカトリック教会の秩序に対する闘争であり、それに対しては信仰の内面性、純粋性をもって闘おうとしていた。もうひとつは、長年のカトリック教会の支配にもかかわらず、ドイツの庶民の間に奥深く生きつづけてきた異教的慣習、あるいは始源的生活感情とでもいうべきものとの闘争であった。こうした慣習あるいは感情は、外から伝道の結果与えられたカトリックの支配に対する無言の抵抗として、地下水の如くに流れつづけ、すでにみたように祭の時などに噴出した。新教の普及、すなわち宗教改革の進展自体、基本的なところでそうしたエネルギーを十分に利用していたのである。したがって、宗教改革が一応成功したからといって、そうした始源的・異教的エネルギーを今度は抑圧しようというのは大変困難なことであった。  ハーメルンでも市民の霊の牧職をハノーヴァーから招き、厳格な日常生活の規範を実施しようとした。一五四〇年の市参事会立法によると、学校が置かれ、僕婢に関する規制の他に、結婚生活についてまで具体的な規制がしかれている。例えば、夫婦が特別な理由がないのに別れようとする場合、和解するように勧告し、それでもきかない場合には悪い方が和解成立まで町の掃除をし、両方が悪い場合は和解成立まで町を追放する、とある。その他結婚式の規制等、人々の日常生活の規範が市当局によって布告され、厳格な締めつけが行なわれた。  しかし、法的規制が実効をもつためには法に権威がなければならない。その権威は世俗的には市と領邦君主との癒着によって与えられ、それに裏づけられた新しい宗教の権威が成立しつつあった。新しい宗教の権威は庶民に対しては、当時低地ドイツ語に訳された聖書によって与えられたというよりは、恐怖の感情をよび起すという方法でつくり上げられていったのである。 [#挿絵(img/fig52.jpg)]  市当局と教会はハーメルンの一般市民が一五五一〜五三年の災害に恐れおののいていることを利用し、〈笛吹き男伝説〉を彼らの権威を裏づけ、庶民を教導するための手段としてとり込もうとしたのである。そのためには何よりもまず中世以来定まった形をもたず、口伝で庶民の間に伝えられてきた〈一三〇人の子供の失踪〉についての伝説にオーソライズされた型を与える必要があった。一五五六年に市当局は市の新門にラテン語の碑文を彫り込ませた。そこには次のように彫られている。 「一五五六年/すなわちマグスが一三〇人の子供を町から/攫っていってから二七二年ののち、この門は建立された」  ここでは〈笛吹き男〉はマグスとして示されている。マグスとは単なる魔術師ではなく、いわばドクトル・ファウストにその典型がみられるような、神秘的な隠れた世界の支配者のことである。庶民の思考世界のなかに、ラテン語のこのような表現が根づいていたはずはないし、〈笛吹き男〉にはラテン語の別の慣用語があるから、このマグスという表現は明らかに市当局の作為によるものである。市当局がこのような解釈を下しえたのも、多くの神学者の支えがあったからなのである。 [#挿絵(img/fig53.jpg)]  この頃すでにこの伝説は遍歴する手工業の職人などを通して全ドイツに知られていた。当時の神学者もこの伝説に大きな関心をよせ、この伝説を扱った書物がいくつか出されている。そのなかでこの伝説を最初にとり上げたのが神学者ヨプス・フィンチェリウスの『不可思議な徴《しるし》』(フランクフルト 一五五六年)であった。フィンチェリウスは次のように書いている。 [#2字下げ] 悪魔の魔力と邪悪さについて、私はひとつの真実の話を伝えよう。およそ一八〇年ほど前、ザクセンのヴェーゼル河沿いのハーメルンの町に、マリア・マグダレナの日(七月二二日)に悪魔が人間の姿をして現われ、小路を徘徊して笛を吹き鳴らし、少年少女など多くの子供を誘い出し、市門を出て山まで連れ去った。そこで悪魔は子供らとともに忽然と消え去ってしまった。子供らがどこへ行ったのか、誰も知るすべもなかった。遠くから子供らのあとをついていった一人の子守娘が親たちに急を知らせたので、海陸を問わずあらゆるところに探索の目が向けられた。子供らが攫われ、連れ去られたのか、どこへ行ったのか誰に聞いても知る人とてなかった。この事件は両親をいたく悲しませ、犯した罪に対する神の怒りのおそろしい例となった。この事件はハーメルン市の法書のなかにも書かれており、多くの高位の人々によって読まれ、語りつがれた。  ここでは〈笛吹き男〉ははっきりと悪魔とされており、人間の罪に対する神の怒りの業の結果として、子供らが攫われたとする解釈がはじめて出されている。また子守娘があとからついていって、両親に知らせたという部分もここではじめて登場する。さらに注目させられるのは、すでに多くの人が市の法書(おそらくドナ)を読んでいるという指摘である。〈笛吹き男伝説〉はこの頃ドイツ内外にかなり知られていたことが解る。しかもフィンチェリウスは市の法書に書いてあるために多くの高位の人々によって読まれ、語りつがれたと述べ、この伝説があたかも上層階級によって、由緒ある典拠に基づいて語りつがれたかのように書いている。ここで期せずしてフィンチェリウスは、庶民の口から口へ流動常ない姿で伝えられてきた伝説に、上から一定の枠をはめようとしていたハーメルン市当局の狙いとまったく一致した考え方をしていたのであり、こうした考え方は以後の伝説の発展にとっても決定的な一歩となった。なんといってもフィンチェリウスの書物はこの伝説を伝えた最初の活字本として、この伝説の普及と変貌に決定的な影響力をもっていたからである。それ以前の史料はすべて手書本であり、流通性がなく、限られた影響力しかもっていなかった。  この頃にはすでに各地で、プロテスタント神学者によるこの伝説の解釈がはじめられており、フィンチェリウスはその筆頭であった。〈笛吹き男〉を悪魔に転化させたのは神学者や聖職者の作為によるものであった、とシュパヌートも述べている。早くも一五五七年にはカスパール・ゴルトヴルム・アテシーヌスが『奇蹟と奇蹟の徴の書』をフランクフルトで出版し、ヘッセン方伯フィリップに捧げているが、この書では明らかにフィンチェリウスの前掲書が種本となっている。この他にも多くの著者がフィンチェリウスの書物を土台にしてこの伝説を広めた。一五七三年にはアンドレアス・ホンドルフが『歴史的事例の書』のなかで、次のような書き出しでこの伝説を伝えている。 「子供たちは学校や教会に通わせ、道路で勝手に走り廻らせてはならない。その例としてまさにこの話に注目させられる」。この書き出しにつづいてフィンチェリウスのほぼ全文が紹介されている。ここではルターの『小教理問答書』に出てくる両親に対する子供の服従義務や悪魔に関する言葉などにそって、この伝説が教訓話として編成されているのである。両親が子供を放任したから、その罰として子供らが悪魔によって隠されてしまった、というのである。「私が子供の頃には魔女や妖術師がたくさんおり、猫や人間、特に子供らに魔法をかけ、他にも多くの害をなしていた」。ルター自身このように語っている。  まったく同じことをマンスフェルト伯領の牧師、ヴォルフガング・ビュトナー(一五三〇頃〜一五九六)も一五八七年に『歴史抜粋』のなかで述べているし、このような例は他にも多い。このように多くの神学者や牧師によって、この伝説は教訓話のなかに取り入れられていったのである。 [#挿絵(img/fig54.jpg)]  こうして神学者が〈笛吹き男〉を悪魔として、この伝説をその教義体系のなかに位置づけはじめると、そこにはどうしても弁神論的な問が生ぜざるをえない。すなわち神はなぜ罪もない子供たちが悪魔に連れ去られるのを許したのか、という問である。この問に対するひとつの答はすでに神学者や牧師が出した「親たちの監督不行届」、あるいは「庶民の不行跡」の結果という見解のなかに示されていた。これは当局や教会の権威の側から、新しい日常生活規範を庶民に強制しようとする立場で出されたものであった。  この問に対するもうひとつの答はまったく別な立場から、別な形で出された。それこそ〈笛吹き男伝説〉と〈鼠捕り男伝説〉との結合だと私は考えたい。 〈笛吹き男〉から〈鼠捕り男〉へ[#「〈笛吹き男〉から〈鼠捕り男〉へ」はゴシック体]  すでにみたように、〈ハーメルンの一三〇人の子供の失踪伝説〉に〈鼠捕り男伝説〉がはじめて登場するのが、一五六五年頃に書かれたと考えられる『チンメルン伯年代記』においてである。それ以前のこの伝説には〈鼠捕り男〉のモチーフはまったくみられない。そこでもう一度『チンメルン伯年代記』をみることにしよう。  この年代記はすでにみたように、ドイツの南端スイス・オーストリアとの境にあるボーデン湖の北のメスキルヒで成立し、手書本が二通存在している。内容は一五五七年までの同地の出来事を書いた年代記である。書いたのはチンメルン伯フローベン・クリストフと書記のヨハンネス・ミュラーである。この記録によると一五三八年にもメスキルヒで鼠が大量に発生し、町から駆除されたという。鼠を退治したのはベルリンゲン出身の冒険家であった。また一五五七年にもシュヴァーベンガウに鼠が激増したことを伝える記録がある。そしてこの二つの話の間にわれわれの伝説が次のような形で挿入されている。 [#ここから2字下げ]  ここで再び鼠の問題にぶつかったので、昔同じような方法でヴェストファーレンのハーメルン市で鼠が駆除された時の神の奇蹟について語らねばならない。その奇異な点でも記憶の特異さにおいても語るに値する話だからである。しかもその話から、全能の神がその被造物に対して「人間の理性をもってしては解明しえない」奇蹟を行なっていることがよみとれるであろう。  何百年か前、ヴェストファーレンのハーメルン市の住民は無数の鼠の大群に襲われ、このうえなく煩わしく、苦しい状態に追い込まれていた。そこに偶然、あるいはおそらく神の配剤として他処の見知らぬ男あるいは放浪者《ラントフアーラー》が現われた。この頃ドイツでは放浪学生のことをそう呼んでいたのである。男は市民の苦しみや呪詛の言葉を聞き、市民が報酬を払い、望むなら鼠の被害から助けてあげようと申し出た。男の申し出は大変喜ばれ、何百グルデンかのかなりの額の報酬を支払うことが約束された。そこで男は町のあらゆる小路で笛を口にあてて吹いて歩いた。やがて町中の鼠が家々から先を争って走り出て男の周りに集まり、信じられないほどの数となってそのあとをついていった。そこで男は鼠の群を近くの山に追放した。それ以後一匹の鼠の痕跡も町にはみられなかった。かくして男は市民と約束した金を請求した。しかし市民はそれを拒絶し、次のように答えた。たしかに約束には反することだが、市民の考えでは男が何の努力も払わず、費用もかけなかったにもかかわらず、鼠の大群は姿を消した。男はこれといって何も仕事をせず、また何ら特別の技術を用いたわけでもない。だから男はこれほどの大金を請求すべきではなく、僅かの金で満足すべきだ、というのである。しかし男は要求を撤回せず、約束した額の金を頑強に請求しつづけた。そこで男がいうには、支払わないなら市民は皆後悔することになるだろうし、そうなってからではもう取り返しがつかないだろう、そして自分の請求通りに支払えばよかったと思うだろうと。市民はしかし金額が大きすぎると言いつづけ、支払わなかった。男は金が支払われる見込みがないとみると、再び前と同じように笛を吹いて町中を歩いた。すると町中の八、九歳以下の少年少女たちが全員男のあとをついて近くの山まで歩いていった。山は奇蹟の如くに子供らを迎えて開き、男は誰にも知られずに子供らとともに山の中に消えてしまった。山は再び閉じられ、それ以後男と子供たちの姿はどこにもみられなかった。こうして町には筆舌にはつくしがたいほどの苦痛が与えられた。しかし市民にはどうすることも出来ず、ただ全能の神に祈り、おのが罪を認めるしかなかった。この奇蹟を永遠に伝えるために、市はすべての文書にキリスト生誕以後の日付を書きとめると同時に、子供らの失踪から何年というふうに書き加えている。…… [#ここで字下げ終わり]  この記録では鼠はヴェーゼル河でなく、山に連れてゆかれた点が後の伝説と違っているだけで、その他の点はほとんど変っていない。すでに述べたように、この記録ではじめて〈鼠捕り男〉の復讐として子供たちの失踪が説明されており、〈鼠捕り男〉がはじめてこの伝説の主役として登場しているのである。またこの記録において、この伝説がわれわれに知られているのと同じほぼ完全な形で登場している点にも注目させられる。 [#挿絵(img/fig55.jpg)]  またここでは市民が約束した報酬を支払わなかった理由が「合理的」に説明されている点もみのがせない。  中世都市内部では金銭の原理が身分制的原理とせめぎ合い、自己を主張していた。それらの担い手は商人層や手工業者たちだった。彼らは自ら額に汗して行なう労働こそ生活の源泉であると信じていたから、もとより先祖伝来の地位や超自然的な力に頼ることなく、日々の仕事に精を出していた。そのような彼ら市民にとって、〈鼠捕り男〉の行為は結果に対する感謝の念とは別に、承認出来ないものであった。近代的設備のととのった病院において、サジを投げられた患者の病室にまじない師がやって来て、あっという間に病人を全快させてしまった時に、医師がまじない師に対して抱く感情と似たような感情が市民にはあっただろう。市民たち自身様々に努力したにもかかわらず、ベッドまで食い破られ、食事も出来ないほどの状態に追い込まれていたのに、その鼠を何の苦もなくただ笛を吹いただけで駆除してしまった〈鼠捕り男〉は市民の世界の人間ではなく、市民たちが否定し、そこから自らを解放することによって市民的(合理的)世界を築きあげてきたその過去の呪術的世界からの使者であった。結果はともかくとして、市民はそのような〈鼠捕り男〉の仕事を低く評価したのである。彼らにとっては仕事《アルバイト》こそがすべての価値の源泉だったからである。しかしこのように仕事にすべての価値の源泉を認めることによって合理的な評価は出来たが、それは極めて非人間的(反論理的)な結果を生むことになった。〈鼠捕り男〉の復讐のモチーフは、こうして近代市民社会における仕事=労働についての単純な合理的思考に対する批判をも含みうるものとして、全世界の人々に読まれてゆくことになるのである。  さて〈鼠捕り男〉がここで〈一三〇人の子供の失踪伝説〉に突如として登場する理由を探るためにも、当時の〈鼠捕り男〉とは一体どのような人間であったのかを、他の類似した〈鼠捕り男伝説〉などからみておかねばならない。  類似した鼠捕り男の伝説[#「類似した鼠捕り男の伝説」はゴシック体]  ヨーロッパの中世都市や農村においても鼠による被害が大きかったことは想像に難くない。冬期には雪に覆われてしまうドイツのほとんどの地方では穀物の貯蔵に皆頭を悩ませたものである。  一九七二年一〇月にコンスタンツで中世史の研究会が開かれた時、ベニングホーフェンというプロイセン中世史の研究者がプロイセンの城における厖大な穀物の貯蔵量について報告した時、そのあまりに莫大な量に出席者は皆驚いた。そのとき一人の研究者は次のように質問した。「ところでそれだけの穀物はおそらく鼠の格好の住居になったと思うが、プロイセンでは何らかのそれに対する処置がとられたのでしょうか」。報告者はもとよりそれに肯定的な答をすることは出来なかった。どこの町でも城でも、鼠による穀物貯蔵量の目減りは覚悟しなければならなかったのである。  日本に古くからみられる鼠返しとか昆布を通路にうめるといった方法は、建築物の構造と彼らの食生活から、用いられるはずもなかったのである。しかし穀物は当時の人々の主食であり、生きてゆくうえに欠くことが出来なかったから、長い間に皆それぞれに何らかの対策を構じなければならなかった。そこに登場するのが、鼠退治の秘法を身につけた職業的な技術者〈鼠捕り男〉である。彼らはのちになってツンフトを構成するが、はじめは定住せず、各地にバラバラに現われ、その秘法によって鼠を駆除し、報酬を得ていた。ヨーロッパの各地にこうした〈鼠捕り男〉にまつわる話が伝えられているが、そのいくつかの例をみよう。 [#ここから1字下げ] (1)一二五〇年にパリのそばにあるドランシー・レ・ヌー村に、鼠の大群が発生して被害が広がっていた。そこで村人はカプチン派の修道士アンジオニーニを呼んで、報酬を約束して鼠退治を依頼した。この魔術師は自分の袋から小さな「悪魔《デーモン》」をとり出しながら、小さな本の魔法の呪文をとなえた。すると数えきれないほどの鼠が男のまわりに群り集まった。そこで男は近くの川に行き、服をぬいで水にとび込んだ。鼠もみなそのあとについてとび込み、溺れ死んでしまった。男が報酬を請求したとき、恩知らずの村人はそれを拒んだ。そこでこの利口な男は袋から小さな角笛をとり出して吹き鳴らした。するとたちまち村の家畜がみな牛から家鴨《あひる》にいたるまで、男のあとについて行ってしまった。今度は男は川とは反対の方に行き、魔法をかけられた家畜たちとともに消え去った。とどめようとしても誰もどうすることも出来なかった。 [#ここで字下げ終わり]  このフランスの伝説は一八二四年の『コルセール』誌にのったものだが、明らかにハーメルンの伝説とは独立に伝承されたものである。伝説の筋は大変似ているが、ハーメルンの伝説とは違って本質は明るい。牛や家鴨をたくさんあとに従えて村を去ってゆく男の姿を想像してみるとよいだろう。カプチン派の修道士のイメージも鮮やかで、現世的である。 [#ここから1字下げ] (2)バルト海のリューゲン島の西にウムマンツという小島があり、その南にさらに小さな島があって、「|鼠の島《ラツテンオルト》」と呼ばれていた。昔このウムマンツ島に鼠の大群が発生し、住民は大変困っていた。その時、島に見知らぬ〈鼠捕り男〉が現われ、高い報酬を得て鼠をすべて誘い出し、ヴス村のところで海を渡って、隣の島に追いやった。それ以来その島を鼠の島と呼ぶようになった。ウムマンツ島にはそれ以来鼠はまったく出ない。 [#ここで字下げ終わり]  これとほぼ同じ伝説が西ポンメルンのカシューブにも、西ガリチアのブジェスコにもある。 [#ここから1字下げ] (3)穀物市場で有名なオーストリアのコルノイブルク市でも、かつて鼠の被害に困ったことがあった。そこに男が現われ、報酬と引きかえに鼠を一匹残らず退治すると申し入れた。そこでかなりの金額が約束された。男は笛を吹いて鼠を皆ドーナウ河まで連れていった。男が報酬を要求した時、その金額をめぐって争いとなった。市参事会が支払いを拒絶したので、男は「そうか、それならいいさ」といってドーナウの岸辺に戻り、笛を吹くと鼠の大群は再び町中に溢れんばかりに戻っていった。市が約束した金を払ったので、男は笛を吹いて鼠を再びドーナウ河まで連れてゆき、今度は皆溺れ死んでしまった。鼠から解放された記念にこの町には鼠の記念碑が建てられた。 [#ここで字下げ終わり]  この話には別な伝承があり、それによると〈鼠捕り男〉が市の裁判長ハンペリの美しい娘に結婚を申し込んだが拒絶された、とある。またこの版では〈鼠捕り男〉の復讐は伝えられていない。 [#ここから1字下げ] (4)アイルランドのベルファストでも笛吹き男が来て、近くの入江にある穴に若者たちを踊りに誘い、魔法をかけて連れ去ってしまったという。この話をカークパトリックが伝えている。 (5)ロルシュ地方においては、かつて蟻の害がひどく、畑の若芽が皆やられてしまったことがあった。司教が農民たちに祈願の道行きを行なわせ、畑で神のゆるしを求めるよう命じたので、農民たちが祈っていると、そこに一人の隠者が現われ、神によってつかわされた者だといって、蟻を駆除する代りに被害を受けている一〇ヶ村が各一〇〇グルデンずつ払うなら、それで主のために小聖堂を建てよう、と申し出た。皆が賛成したので、隠者は長衣の下から笛を出して吹き鳴らし、天も暗くなるほどの無数の蟻を集めて黒い塔のようにして皆湖に沈めてしまった。隠者が村に戻り神への報酬を求めると、人々は隠者を魔術師だといって拒絶した。隠者は驚くふうもなく、「罰を受けるだろう」といったのみだった。やがて隠者が再び笛を吹くと、この地方の豚が皆小屋から出て隠者についてゆき、ロルシュ湖まで行ってそこで消えてしまった。 [#ここから2字下げ]  その翌年にはバッタの被害が大きく、この地方の農民は皆大変困っていた。そこで司教のもとに頼みにいったが、恩知らずのお前たちには相応しい罰だとして相手にして貰えなかった。そこでまた村人たちは畑のなかで祈願の道行きを行ない、神のゆるしを求めて歩きまわった。彼らがロルシュ湖についた時、山から炭焼きがおりてきて皆に語った。村人の罰はやがてゆるされるだろう。だが修道院建設のために、一ヶ村五〇〇グルデンずつ納めねばならないという。村人は喜んで約束した。そこで炭焼きは笛をとり出して吹くと、バッタは男のまわりに群をなして集まり、男とともにタンネンベルクまで行き、そこで大きな火のなかで焼かれてしまった。しかし炭焼きが戻った時、村人は隠者にしたのと同様に報酬を拒絶した。そこで炭焼きは「そうか、かってにするがいいさ」といって笛をとり出して吹いた。するとこの地方の羊が皆集まって来て、男とともにロルシュ湖に行き、そこで消えてしまった。その間村人たちは呪文をかけられたように立ったままで動けなかった。  その次の年には、まるで天から降ったかと思われるほどの鼠の大群が村々を襲った。被害が人間にまで及んだので、村人はまた畑のなかを行ったり来たりして祈った。プロセッションが再びロルシュ湖にきた時、山の妖精が現われ、この災難をすぐに片付けてみせるが、そのために各村が一〇〇〇グルデンずつ払わねばならないと告げた。お前たちは神のためにその金を使うことを望まないから、今度は少なくともお前たち自身のために払え、という。その金で妖精はヘンデスハイムの山路にダムを築くという。そうすればお前たちの耕地は山津波にやられることはもうなくなるだろうと。もとより村人はすぐにその申し入れに応じた。すると山の妖精は笛を吹き、何万匹もの鼠を招き寄せ、タンネンベルクまで連れていった。そこで山が二つに開き、それが再び閉じられた時、山の妖精も鼠もまったく姿を消していた。ところが村人は今回も約束した金の支払いを拒んだのである。村人の忘恩の報いは前二回とは比べようもないほど厳しかった。妖精が村中で笛を吹くと、すべての子供が乳のみ子まで、母親の胸から離れて妖精のあとをついて行ってしまった。一行がタンネンベルクまで来た時、大きな崖が開き、妖精と子供たちはその中に入ってゆき、崖が再び閉じられた時、彼らは皆姿を消していた。村人は大変悲しみ、後悔し、次の年に再び罰を加えられないように金を集め、ヴォルムスの司教のもとに送った。それ以来こうした災難は起っていない。 [#ここから1字下げ] (6)ボヘミアの南部には養魚池が多い。そしてそこにはしばしば水の精が棲んでいる。水の精は小人で、緑色のズボン、緑色のフロックを着、緑色の髪をなびかせている。ブドヴァイスの近くのドブラヴィッツ村にもそのような池があり、昔は水の精が棲んでいた。ある日大勢の子供たちが村のそばで遊んでいた。そこに突然どこから来たのか一人の見知らぬ男が仲間に加わった。男は奇妙な彫刻をした笛をポケットから出していくつかの曲を吹いた。そうすると村の子供たちは大変楽しくなり、とびはね、手を打って喝采した。男は笛を吹きながら、少しずつ村から遠ざかっていった。子供たちは魅せられてしまい、それに気がつかなかった。一人の子供だけが立ちどまり、他の子がどこへ行くのか冷静に見届けようとしていた。男と子供たちが池に近づき、男が杖で池の面を打つと水面が割れて開き、子供たちがその割れ目のなかに入っていった。水面が再び閉じた時、そこには誰も残っていなかった。見ていた子供は叫びながら、この恐ろしい知らせを村人に伝えた。村人たちはそこで水の精を待ち伏せしてつかまえようと決心した。水の精は水中では強いが陸では弱いからである。村人は辛抱強く待ち伏せた。ついに水の精は散歩に出たところを襲われ、まるで水を求めるかのように地面に穴を掘ったが、ついに逃げ場を失い捕えられた。水の精は縄で縛られ、村に連れ込まれた。村人は大変喜び次の日に審問が開かれた。子供をどこへやったのかという質問にはじめは水の精は答えなかったが、村人が生きたまま焼き殺すぞ、と脅したのでついに赦しを乞い、釈放して貰えるなら子供を返し、この地方から出て行くと約束した。水の精は最初の約束を守ると誓い、二番目の約束には八日間の猶予を求めた。そして最後に出てゆく日時を定め、出てゆくところを監視することも認めた。そこで村人は水の精を信じ、釈放した。次の日子供たちは戻って来たが、いろいろな質問に何も答えられず、楽しく遊んだあと眠ってしまったと答えただけであった。そして水の精が村を離れる時が来た。多くの村人が集まっている時、波にのって小さな車が来るのが見えた。車にはすばらしい形をしたいろいろな道具が山と積まれ、その上に水の精が座ってパイプをふかしながら鞭をひゅうひゅうならしていた。かわいい仔馬がおどろくほどの速さで走り、あっという間に視界から消えてしまった。この時以来この地方には水の精の噂はまったく聞かれなくなったという。 (7)ケムニッツでも手廻しオルガンを弾いた男が子供を連れ去り、マリエンベルクへ行き、そこで山が二つに開いてそのなかに皆消えてしまったという話が伝えられている。(以上(1)〜(7)はすべてドバーティンの史料集による) (8)昔ベルリンのそばのエーベルスヴァルデに、鼠の大群が発生した。特に市の穀物用の水車小屋で大きな被害が出た。一六〇七年あるいは一六〇八年に、ある男が市参事会にこれらの害をなす小動物をすべて駆除し、水車小屋がある限り一匹も発生しないようにしようと申し入れた。男は一年間は一文も請求せず、一年たって鼠が出ないことが証明されてから、かねての約束にしたがって一〇ターラーを受取ることになった。そこで市参事会は前金として二ターラーを即座に支払った。男は水車小屋のなかに何かを置いた。そしてさらに見えない場所にも何かを隠した。次の日に驚くべきことが起った。鼠の大群が次から次へと水車小屋から走り出し、すぐそばを流れるフィーノウ川にとびこみ、一匹たりとも戻らなかったのである。一年後にこの鼠捕り男は残金八ターラーを請求し、これを受取った。それ以後市内にも水車小屋にも鼠はまったくみられなかったという。(以上はシュパヌート『ハーメルンの鼠捕り男——古伝説の成立と意味』二二七頁による) [#ここで字下げ終わり]  鼠虫害駆除対策[#「鼠虫害駆除対策」はゴシック体]  以上〈ハーメルンの鼠捕り男伝説〉とは、おそらく独立に伝えられてきたヨーロッパ各地の〈鼠捕り男伝説〉や類似の伝説を展望してみた。  一八、九世紀にいたるまでヨーロッパにおいても、人々はこうした鼠虫害や自然の災害に翻弄されつづけてきた。鼠害の多くは収穫後の穀物の保存に関する問題であったが、(5)のロルシュ地方にみられたバッタ(トノサマバッタ)の被害については、多くの事例が報告されている。  すでに八七三年には、『フルダ年代記』によると多くのバッタが出現し、収穫前の作物が全滅したとある。フルダからマインツにまで出現するほぼ一時間に、約二〇〇ヨッホ(一連の牛が一日に耕す畑の面積が一ヨッホ・約五〇アールである)の面積の穀物を食い荒らした。勿論その結果は飢饉であり、『ヘルスフェルト年代記』はその状態を叙述している。九四一年にもミュンスターにバッタが発生し、その結果飢饉が起ったという記録があるし(ただし未確認)、一〇二一年にもフランスの史料に同様な報告がある。一二四二年にもハンガリーにバッタの被害が出て、タタールの侵入による土地の疲弊に輪をかけたという。  このように民衆が蒙った被害に対して、教会は民衆の伝統的な慣習をとり入れ、「動物の害から守る祈り」の儀式をつくりあげてきた。ロルシュ地方の伝説にみられるプロセッションもそれであるし、多くの地方に動物の害から人間を守る聖人が誕生していた。スイスでは聖マグヌス、アウグスブルクでは聖ウルリヒなどが祀られている。ハーメルンでも聖ゲルトルードが鼠虫害からの守護の聖人として祀られている。聖ゲルトルードは、ドイツ南部の聖ウルリヒに対応するドイツ北部の守護の聖人なのである。  しかしこうした教会の儀式や聖人が単なる気安めの働きしかしなかったことは、これらの伝説が正直に伝えている。そこで人々は自分たちに正体のつかめない超世俗的な世界に住んでいるようにみえた隠者や放浪者などに期待をつないだのである。都市や農村で、お互い同士腹の底まで解りあえるような環境のなかに暮していた人々には、未知の土地から遍歴して来て、見知らぬ土地へと旅立ってゆく放浪者はそれ自体何か神秘的な別世界の住人のように思われ、自分たちにはない特殊な能力を備えているようにみえたのである。実際これらの〈鼠捕り男〉は何らかの秘法を身につけていたとも考えられる。  (8)のエーベルスヴァルデに現われた〈鼠捕り男〉は水車小屋に何かを置いたという。これはおそらく鼠の嫌う何らかの薬品であったと考えられるし、実際にこうした秘法を身につけた〈鼠捕り男〉たちは一七世紀にはツンフトを構成し、その秘法を代々伝授していったのである。  各地の伝説にみられるような、笛の音によって鼠の大群を招き寄せる方法すら、あながちまったくの空想的方法ではないらしい。二〇世紀の現代においてもイギリスのノーサンプトンシャーで、ヘイウッドなる男が長年の間鼠を観察し、大きな努力を払ったすえ、ある種の笛によって鼠を招き寄せることが出来たという。その結果鼠退治に大きな効果があったらしい。ノロシカの牝の声を真似て、その牡を狩人が招き寄せることが現実に行なわれていることを思えば、必ずしもまったくのつくりごととはいえないかもしれない。 〈鼠捕り男伝説〉に共通していることは、鼠その他の害虫の被害に対して一般の人々は何のなすすべもなく、ただ被害を一方的に受けるばかりであったことと、鼠などを退治し、一般の人々を救ったのは、例外なく見知らぬ男、あるいは都市や農村の共同体内には住まない、非日常的な生活を営む人間であったことである。  こうした点からわれわれは当時まだ鼠虫害駆除の一般的な手段がなかったことを知ることが出来るし、非日常的な生活を営む見知らぬ人間の手によって、そうした困難な被害が一挙に見事に解放されてしまうことから、当時の人々がこの免れがたい鼠の害から一挙に解放されることをいつも夢みていたことを推察しうる。また多くの伝説に共通している〈鼠捕り男〉への報酬の不払い、忘恩というモチーフは〈鼠捕り男〉が前に述べた遍歴楽師と同様に土地に定住しえず、遍歴して歩いていたために共同体的秩序からはみ出した被差別民であったことと、彼らに対する一般の人々の日常の態度・処遇が対等な権利を有する者に対するそれではなかったことを示している。  両伝説結合の条件と背景[#「両伝説結合の条件と背景」はゴシック体]  ヨーロッパ各地にみられた〈鼠捕り男〉の伝説と〈ハーメルンの笛吹き男と一三〇人の子供の失踪〉についての伝説とはどのようにして結合したのだろうか。  その第一の前提は、ハーメルンが古来水車の町として著名であったという事実にある。すでにみたように、この町は紋章に水車用の石を使っているぐらいだし、碾臼《ひきうす》用の石はその主要な輸出品でもあった。穀倉も十分ノ一税館も鼠の格好のすみかであったに違いない。聖ゲルトルードが鼠虫害から人間を守る守護の聖人として、ハーメルンで祀られていることからも解るように、この町でも鼠の害は決して小さなものではありえなかったであろう。  残念ながら、ハーメルンについては鼠害に関する記録はノイキルヒが書いているだけで、史料は残されていない。しかしこの聖人が祀られている多くの土地(例えばオズナブリュック)で、鼠害と司教によるその駆除などの話が伝えられている。だから〈鼠捕り男伝説〉がハーメルンに発生するか、あるいはひきよせられたとしてもそれほど不思議ではないと考えられる。  しかしなぜ他ならぬ〈鼠捕り男伝説〉が〈一三〇人の子供の失踪伝説〉と結合したのだろうか。この点についてはいずれの伝説にも〈笛吹き男〉がいるという事実に注目させられる。シュパヌートは〈笛吹き男〉の存在がこの二つの伝説をつなぎとめた接点であったとみている。〈笛吹き男〉という名を耳にした時、当時の人々は直ちに遍歴して歩く放浪者、そして〈鼠捕り男〉などのことを想い出したことだろう。すでに紹介したように、〈鼠捕り男〉はヨーロッパ各地で伝説となっているのである。 〈笛吹き男〉は即〈鼠捕り男〉とみなしうるほど、両者の社会的地位は同一だったのであり、当時の身分的秩序においては両者はまったく区別しえなかった。だからこの点についてはこれ以上論ずる必要はないかもしれない。しかし〈鼠捕り男伝説〉が〈一三〇人の子供の失踪伝説〉とただ結合したというだけでなく、市民の忘恩に対する〈鼠捕り男〉の復讐というモチーフが、同時にその後この伝説において主旋律となっていったことを考えると、両伝説の結合にやはり何らかの社会的背景を想像してみたくなるのはさけられない。  すでにみたように、一五六五年にはドイツの南端でチンメルン伯が〈ハーメルンの笛吹き男〉の伝説を〈鼠捕り男の復讐〉の話として日記に記している。当時すでに遍歴手工業職人は全ドイツをめぐっていたから、彼らを通してハーメルンの町の人々の間でささやかれていた〈鼠捕り男の復讐〉の話が各地に伝えられたと考えられる。チンメルン伯領自体、鼠の被害を受けた経験をもっていたから、たまたまそこを訪れた職人がいろいろな世間話の時に、同様に鼠の被害が絶えなかったハーメルンの町のことを話題にのせ、〈鼠捕り男の復讐〉としての子供たちの失踪の伝説を伝えたことは十分に考えられることである。  一五六六年にはヨハンネス・ヴィエルスも同じく〈笛吹き男伝説〉を〈鼠捕り男の復讐〉の話として書物で紹介している。この話はすでにライン河のあたりにも伝えられていた。  こうした事情を考えると、一六世紀中葉にハーメルンの町で〈笛吹き男伝説〉が〈鼠捕り男伝説〉に転化していた、とみることが出来る。ヴィエルス自身第四版を出すにあたって、ハーメルンの町を訪れていることから考えても、それを確認しうる。 〈笛吹き男〉と〈一三〇人の子供の失踪伝説〉はその時々の社会的状況に対する庶民の反応として、ハーメルンの庶民によって語り伝えられてきたと考えられるから、〈笛吹き男伝説〉を〈鼠捕り男の復讐〉の伝説に転化せしめたのも同じ庶民であったに違いない。  それではその転成を説明しうるような条件はあったのだろうか。  すでにみたように、一五五一年から一五五三年にかけてハーメルン市はまったく神からみすてられたかと思われるほど、つぎからつぎへと災難にみまわれていた。一六〇軒の家をひとなめにした大火と、一四〇〇人の人命を奪ったペストに加えて大洪水が町を襲い、人々の身も心も疲れ果ててしまった。こうした災害に輪をかけたのが宗教戦争であった。  ニーダーザクセンでは、ルター派とその都市を不倶戴天の敵と狙う、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ハインリッヒ(一四八九〜一五六八)が攻撃を用意しており、ハーメルンとヒルデスハイムらの都市は、一五四二年にそれに対して同盟を結んでいた。しかしハーメルンの内部にもカトリックを支持する騎士層や律院の勢力はいまだ根強く残っていた。こうした対立のなかで、一五四六年に皇帝が新教派諸侯のシュマルカルデン同盟に対して戦を宣言した時、プロテスタント側のハーメルンとその周辺からも依然としてカトリックに留まっていた多くの騎士や傭兵が参戦した。律院やカトリック系市民がその費用をもったという。だからカトリック陣営は新教派陣営の結束に楔を打ち込もうという意図から、ハーメルンを「豊かな武器庫」と讃えたのである。これに立腹した新教側の勇将ヘッセン方伯フィリップ(一五〇四〜一五六七)は、ハーメルンを破壊して「武器庫」を殲滅するぞ、と脅したのである。それを聞いて激昂した新教派市民は律院を襲撃し、修道士を木に縛りつけたりした。しかし皇帝はシュマルカルデン同盟との戦では勝者となり、ハインリッヒはハーメルンの近くに戻って戦闘準備をはじめた。ハーメルンの市参事会は迫り来る攻囲に備えて風車をつくった。こうして信仰を守るために、領邦君主とも戦う覚悟のほどを示したのである。  一五五三年の春にハインリッヒは軍勢をヴェーゼル河に送った。これに対してプロテスタント諸侯や都市は応戦態勢を整えた。こうしたなかで市参事会はブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルプレヒトを市の同盟者として迎え入れた。その結果、市の旧教派陣営と辺境伯の軍隊との間で小競合が行なわれたが、こともあろうに辺境伯軍は旧教派陣営の居所をはじめ、市内を徹底的に掠奪し荒らしまわったのだ。市の防衛のためと称して、市参事会が他処者の軍隊をひき込んだため、かえって大きな被害が市民に加えられたのである。  こうした宗教戦争の最大の被害者はいうまでもなく市民、特に一般の庶民であって、彼らは一五三一年以来の災害に加えて戦火に追いまわされ、自暴自棄の状態におちいっていた。市内では喧嘩口論は絶えることなく、賭事は日常の遊びであるよりはむしろ生活を賭けたものとなり、自堕落な男女関係や離婚が日常茶飯事となっていた。だがいくら賭事に熱中しても性の愉楽のなかに耽溺しても、そこには希望も救いも見出すことは出来ない。彼らは近くのピュルモンの町の聖なる泉に群をなして巡礼し、ひたすら救いを探し求めもした。この泉詣では、やがてハーメルン以外からも多くの人々をひきよせていったのである。  だがあまりに理不尽な実生活における被害は、政治的・宗教的対立の犠牲者たる庶民の間にも為政者への批判の心を芽生えさせてゆく。その一〇年ほど前の一五四〇年には近くのアインベック市で大火があったが、アインベックの人々は皆、憎悪の的となっていたハインリッヒ公こそ放火犯人だと信じ恨んでいたのである。  ほぼ同じ頃にハーメルンでは〈笛吹き男と一三〇人の子供の失踪伝説〉が鼠捕り男と市参事会の裏切りの伝説へと転化していった。この町に古くから伝えられた伝説はここで突如として政治的に鋭い輪郭をもって現われ、市参事会に災害の責任があるのに、子供らと貧しい親たちがそれを償わねばならなかった、という形で、うちつづく自然的・人為的災害に対する庶民の怨念が表現されたのである。  当時のハーメルンにおいて、災害や戦乱とうちつづく理不尽な諸悪の犠牲者たらざるをえなかった、教養とてない一般の庶民には、怒りや非難を向けて怨みを晴らす手段も組織もなければ、それを文書に記録して鬱憤を晴らすことも出来なかった。しかし犠牲者たる庶民は、まさにその立場の故にことの真実を直感・直視し、それを何かの形で表現せざるをえなかった。そのとき、文盲の彼らが自らの体験を表現する手段としてもっていたのが、父祖たちがやはり同じような捌《は》け口のない苦しみを沈澱させ、凝縮させて伝えてきた「古伝説」だったのである。社会の下層で呻吟《しんぎん》する庶民の苦しみは、そのものとして直接に言葉に表現するにはあまりに生々しく、表現されたとたんに庶民には嘘としてみえてくる。庶民はまさに苦しみの底にあったが故に、その苦難を無意識のうちに濾過させ、つきはなした形でひとつの伝説のなかに凝縮させる。こうして古来人々の恐怖の的であった〈笛吹き男〉や〈鼠捕り男〉でさえ、庶民にとっては自分たちの怒り、悲しみ、絶望をともに分ちあう存在となる。〈鼠捕り男〉が庶民と同じ裏切られた存在として描かれていることは、この時の庶民の絶望の深さを示していると私には思える。 [#挿絵(img/fig56.jpg)]  以後〈ハーメルンの笛吹き男伝説〉は鼠捕り男の復讐の伝説として全世界に広まってゆくことになる。政治・宗教上の主義・信条の争いの犠牲者が常に庶民・子供である限り、この伝説は〈鼠捕り男の復讐の伝説〉へと転化することによって、一地域の伝説から全世界的な普遍的な意味をもった伝説へと成長していったからである。  伝説に振廻されたハーメルン市[#「伝説に振廻されたハーメルン市」はゴシック体]  このように市参事会の裏切りに対する鼠捕り男の復讐の物語として、〈一三〇人の子供の失踪伝説〉がドイツ全域に広まってゆくと、ハーメルン市当局は苦境に立たされることになった。同時代の人々はまさにこの伝説の背後に普遍的な真理の存在を感じとり、疑惑の目で市当局を見たからである。自らの世界像もそれを形成すべき学問ももたなかった庶民は、伝説を通して現実をとらえていたのである。 〈鼠捕り男の復讐の物語〉としてこの伝説が巷間に広まってゆく際に、決定的に大きな役割を果したのは、一六五四年に出たサミュエル・エーリッヒの『ハーメルンからの失踪』であった。エーリッヒはハーメルンでラテン語学校の校長をしていたが、その頃から広範囲にわたって文献を探索し、すでに一六四三年にこの伝説の核心は真実に起ったことであったと表明している。  退職し、ヴァレンゼンの村の牧師となって暇を得て、この書物を著わしたエーリッヒは、ハーメルンの市参事会、組合、全市民に自著を捧げるとともに、彼を中傷する者からの保護を求めている。エーリッヒには市当局を中傷するつもりはまったくなかったとみられるが、この書物をハーメルンで印刷することが出来ず、隣のリンテルンの町で印刷している。多くの者が彼の仕事に腹を立て、妨害したからである。  エーリッヒはこの伝説は真実であったとし、悪魔が神の命令を受けて、今は明らかではないが何かの罪の故に、子供たちを連れ去ったのだと解釈したのである。さらに多くの文献に出てくるという根拠から、エーリッヒは六月二六日に事件が起ったことと、鼠退治も真実の出来事であったとした。また〈鼠捕り男〉への報酬を市が拒否したのは正しい行動であったという。なぜなら魔術師相手の約束など守らないことによって、市はまさにキリスト教的に振舞ったのだから、責任は市にはないという。  この書物で彼は多くの素材(資料)を集めることによって、近代的学問研究に近い形でこの伝説の真偽を論じたのだが、そのためかこの書物は大変な売れ行きを示した。エルフルトの子供の舞踏行進、子供の十字軍、サン・ミシェルへの子供の巡礼、ティレ・コルプ(偽のフリードリッヒ皇帝)等の事件と並べて、この事件が歴史的事実として叙述された。  エーリッヒによれば、この時代はこうした事件にみられるような惨めな時代であり、ハーメルンでも悪魔の所業がみられたのだという。いずれにせよエーリッヒの書物はこの伝説の歴史的真偽の問題をはじめて提出し、後の研究の出発点となるものであった。  ところで一六五二年にヴェルフェン家では、フランクフルト(マイン)のメリアン書店(地理書で有名)からブラウンシュヴァイク=リューネブルク地誌の新版作成への協力を求められ、各都市にその沿革についての報告を出させた。一六五三年にはハーメルンからも『宮廷への報告』が提出された。地誌では〈鼠捕り男と一三〇人の子供の失踪〉の伝説はつくり話として扱われている。ハーメルン市当局はこの伝説を地誌に入れることを望んではいなかったのだが、メリアン書店の編集部にいたマルチン・ツァイラーはこの伝説を採用したのだ。だがハーメルン市の報告では、一三〇人の子供の失踪のみが扱われ、鼠捕り男の鼠退治とそれにまつわる話は削除されていた。  まさにこの『宮廷への報告』が出され、印刷にかかっている間にエーリッヒの前掲書が刊行され、大きな反響を呼んだのである。市当局がエーリッヒの書物を自分たちが出した『宮廷への報告』に対する反論と受けとったのも無理はない。市参事会員セバスチアン・シュピルカーは『ハーメルンの子供たちの失踪についての反論』を著わし、エーリッヒ批判を行なった。そのなかでシュピルカーはこの伝説の伝承を学問的に究明して、子供を脅すためのまったくのつくり話とみなし、市の法書ドナにおける記録があとからの記入であることなどをあげて、この伝説全体が虚構であると主張したのである。 [#挿絵(img/fig57.jpg)]  かつてハーメルン市は訪れる客のことも考えて、わざわざ記念碑(新門)まで建設したのだが、今や自らその伝説を否定するにいたったのである。こうした市当局の態度の変化の背後には、当時の厳格な生活規範のもとで、鬱屈した庶民の生活感情の捌《は》け口ともなった魔女信仰、魔女裁判の進展があった。  一六五二年にはハーメルンで再び魔女裁判が行なわれ、ユェルツェン出身の貧しい靴職人ジレモンが市場で焚殺された。下女たちはもはや私たちには解明することのできない興奮状態のなかで、市当局に対する憎悪の念を放火行為という形で吐き出したといわれる。一六六〇年にも同じようなきっかけから、市の中央部で四四軒を焼きつくした大火が起っている。このような状況のなかで〈鼠捕り男〉を悪魔とし、市の裏切りを含むこの伝説の全体を歴史的真実とするエーリッヒの書物が出版され、大変良く読まれたのだから、市当局も座視することが出来ず、伝説全体を否定する行動に出たのである。  ヴァンの理論を『デア・モーナト』誌上で紹介したオドンネルにいわせると、市当局はすでに早くから、子供らの失踪に関する記録を抹殺して、後を絶たない東方移住によって人口が流出するのをふせごうとしていたが、一六世紀にはさらにこの伝説を否定する積極的な理由が加わったという。ハーメルンは水車による製粉を大きな経済的基盤とする町であったから、穀物の敵である鼠の噂が広まることは、ハーメルンの経済的繁栄にとっても致命的なことだったからだというのである。こうした指摘もまったく無視することは出来ないだろう。いずれにせよ、シュピルカーの『反論』は学問的な論証を積み重ねたそれ自体としてはすぐれたものであったにもかかわらず、まったく普及せず、他方でエーリッヒの書物は版を重ねていった。この伝説をめぐって市当局はもの言わぬ庶民と格闘し、結局は敗北したのである。 [#改ページ]  第二章 近代的伝説研究の序章  伝説の普及と「研究」[#「伝説の普及と「研究」」はゴシック体] 〈笛吹き男と一三〇人の子供の失跡〉の伝説はハーメルンという一都市の伝説でしかなかったが、市参事会の裏切りに対する鼠捕り男の復讐というモチーフが加わったことによって、この伝説は普遍的な意味をもつことになった。  どのような土地にも、自然的・人為的災害が絶えることはなく、どこにおいても庶民の苦しみに対して当局は無為無策であり、無名の英雄によって庶民の苦しみの根源が除去されても、当局はそのような英雄を正しく処遇せず、往々にしてむしろ断罪し、その結果生ずる災難もすべて結局は庶民が担わねばならない。しかも大人の世界で営まれるこうした醜悪な所業の青任をとらされるのは、しばしばいとけない子供たちである。このような「現実」を人々が日々味わわされている限り、この伝説は全世界の人々に訴えかけてゆく力をもっていた。  しかしハーメルンのような地方の一小都市の伝説が、全世界に普及してゆくには、これまでのような口伝ではなく、文字・書物という媒体をへなければならなかった。そしてその媒体を通してこの伝説を全世界に紹介していったのは、これまで何百年もの間この伝説を親から子へと伝えてきた素朴な庶民ではなく、知識人層であったことはいうまでもない。一七世紀という時代は、このような分野で特に知識人が活躍した時代であった。  この時代にはまだ、人間の日々の生活と自然現象との関係も、超自然的な働きによって規定されているように思われていたし、人間の生活の深層も容易にとらえられないものにみえていた。宗教は人々のこうした無知に根差す不安に強く訴えかけ、その心を左右しうるだけの力をまだもっていた。しかし一七世紀の宗教はピューリタンやジャンセニスムの隠れた神のように、人々の生活に無言の恐怖を惹き起し、慰めを与えるどころか、厳しい軛《くびき》によって生活を縛っていたのである。  こうした状況のなかで多くの知識人は、彼らの恐怖の源泉をなしていながら、その知識では解明しえない様々な奇蹟や不可思議な出来事を集め、いわばそれらの不可解な現象をひとまず対象化することによって、来るべき啓蒙思想への足がかりをつくったのである。彼らにとって、ハーメルンの事件は格好な題材であったから、この時代には多くの人々によってこの伝説が様々な仕方でとりあげられていった。  すでに一六〇一年には、フィリップ・カメラリウスは『歴史の楽園』のなかでこの伝説を紹介し、この話を信じない人はまだ多いが、一般に知られており、あらゆる点で真実である、と述べている。カメラリウスはこの話を人間に対する鼠の害を扱っている部分で伝えているのである。  一六一四年にはハインリッヒ・コルンマンが『畏怖すべき山』『不可思議な生活』のなかで世界の山々を扱い、そこで〈笛吹き男〉や〈鼠捕り男〉の姿をして現われた悪魔の仕業としてこの伝説を伝えている。  一六五〇年にはすでにみたようにキルヒャーの『普遍的音楽技法』がローマで出版されているし、一六五四年には前述のメリアンの地誌が刊行され、一六六六年にはヨハネス・トレスターが『新旧ドイツダキア・ジーベンビュルゲンの叙述』(ニュールンベルク)のなかで、ハーメルンの子供たちがジーベンビュルゲンへ赴き、ジーベンビュルゲンのザクセン人の先祖となったという説を立てている。これはいうまでもなく、のちのジーベンビュルゲン移住説(東方植民説)の嚆矢というべきもので、同時にエーリッヒとキルヒャーに論争をいどんだものでもあった。  その他この世紀には、ドバーティンの史料集におさめられているこの伝説を数々の著者がとりあげ、後の伝説研究のモチーフのほとんどすべてが、この頃になんらかの形で提出されている。そうした意味で、批判も不十分で、選択も恣意的であったとはいえ、一七世紀の著作家たちの百花斉放ともいうべきエネルギーには注目させられるのである。それと同時に、これらの著作家たちのほとんどすべてはハーメルン以外の土地の人間であり、それぞれの土地でその書物を出版していることからも明らかなように、この伝説はもうハーメルンというヴェーゼル河沿いの一小都市を離れ、全世界の知識人の関心の対象として認識されつつあったのである。  しかしそれらのほとんどは、素材の点でヴィエルスやキルヒャーあるいはエーリッヒに依存していたから、この伝説をなんらかの形で肯定したうえで、それぞれの解釈を加えたにすぎなかった。しかるに一六五九年にオランダのショックが行なったエーリッヒ批判はこの伝説の真偽の問題を正面からとりあげ、それを虚構と断定したうえで、この伝説成立の歴史的背景を探ろうとした点で、近代的伝説研究の真のはじまりともいえるものとなった。  ショックの書物『ハーメルンの寓話』はフローニンゲンで出版されたもので、真理と虚構、歴史と寓話とを区別すべき原則について論じ、同時代人の記録がまったくないことから、この伝説は信じられないと結論している。エーリッヒが集成した史料は信ずるに値せず、いわゆる市の法書なるものは存在していないという。またこの話は神の法にも人間の常識にも反するものであり、辻褄が合わず、そのまま受け容れるわけにはいかないとして、この伝説を「俗衆のつくり話」であると結論している。つまり無知な庶民にのみ信じられるようなものだというのである。  しかしショックはどのような伝説にも何らかの真実の発端があるものだと考え、この伝説の歴史的形成の発端にある真実の核を探そうとし、二八〜二九頁にあげた様々な可能性を検討した。こうしてショックはこの伝説形成の歴史的背景を探ろうとした最初の近代的研究者となったのである。  ショック以後にドイツで、ニコラウス・ニーレンベルガー(一六七一)、フランツ・ヴェルガー(一六七〇)がこの伝説に関する研究を学位論文にまとめた。いずれもショックを批判して、エーリッヒを弁護せんとするものであったが、内容的には特にみるべきものはないといわれる。その他ヴォルフ(一六七〇)、ブッデ(一六九二)、シェルギギウス(一六八八)、ピピング(一六九〇)等の学位論文も刊行されている。シュパヌートはこれらにも何ら独自の価値を認めていないが、私たちの興味を惹くのはエーリッヒやショックの議論に触発されて、当時の学界がこのハーメルンの伝説をその研究対象としてとりあげた点である。庶民の間で長い間語りつがれてきた伝説が、知識人の関心の対象となったのである。  しかしながら、これらの「研究」のなかには、まだ〈笛吹き男〉を悪魔とみたてる主張(ピピング)もあって、ショックの投げた波紋が広がり、近代的研究が浸透するには一八世紀をまたねばならなかった。  ライプニッツと啓蒙思潮[#「ライプニッツと啓蒙思潮」はゴシック体]  一六九三年にオランダで、ショックの弟子であった牧師のバルタザール・ベッカー(一六三四〜一六九八)は『魔法をかけられた世界』を著わし、悪魔信仰を拒否して、当時まだ残存していた魔女信仰とたたかった。この書物はすぐにドイツ語、フランス語、英語に訳されて大きな反響をよんだ。 [#挿絵(img/fig58.jpg)]  ベッカーは「魔術などは信じさえしなければ存在しない」と述べ、教会の反感を買って、牧師職を失ったような人物であった。このような立場からベッカーは、ハーメルンの伝説も信じられない「つくり話」として片づけようとしている。ひとつの都市が鼠の被害を受けるということはありえないことではない。しかし一三〇人もの子供が、見知らぬ人間のあとをついて行って連れ去られ、誰もそれを遮る者がいなかったということはありえないという。  こうしてベッカーはエーリッヒを批判し、この伝説がまったくのつくり話で、時とともに消えてゆくものだとしているが、シュパヌートが指摘しているように、この結論はベッカーが原則的にエーリッヒの問題設定の枠を出ていなかったことを示している。なぜなら伝説が真の歴史的事実であったか、それとも虚構であったかという問題の立て方は、まさに啓蒙思想期の伝説研究家に共通した観点であり、彼らの多くは合理的な判断基準を設定して伝説の非合理性を暴いてみせたにすぎない。そうして非合理的な虚構の伝説を信じ、非合理的世界に生きている俗衆を軽蔑しながら啓蒙せんとしていたのである。  例えばヨアヒム・コンラート・レーガーやヨーハン・フリードリッヒ・モラーなどは、俗衆は一七世紀においてもこんなくだらない話を信じている、と書いてこの伝説をまったくの虚構としている。たしかに〈鼠捕り男伝説〉と結合した、〈ハーメルンの一三〇人の子供の失踪伝説〉は歴史的真実の核はもっていても虚像であった。しかしその虚像を史実でないとして否定した啓蒙思想家の多くは、民衆にとって長い年月の辛苦のなかから滴りおちるようにして生み出されてきた虚像の方が、無味乾燥な「史実」よりも重い意味をもっているということを理解しえなかったのである。 [#挿絵(img/fig59.jpg)]  伝説の真偽を問うという素朴な研究の段階はショックを先駆けとして、ライプニッツ(一六四六〜一七一六)によって完全にのり越えられた。  一六九二年にフランスの銭貨学者トアナールが、ハーメルンでは何か「特別な暦」が採用されていると書物に出てくるが、そのような暦は他の都市や国にもあったかどうかを、ライプニッツに問い合せた時、彼はこう答えている。ライプニッツは史料をハーメルン市からハノーヴァーまでとり寄せ、さらにエーリッヒとショックの書物も参照した。ハーメルンの独自な暦については積極的には何も確認しえないと結論したが、同時にライプニッツは、この伝説が何かの真実の歴史に由来するものではないかとの想像をも書いている。そして子供の十字軍行の際の事件を想起して、答のなかに記している。  トアナールの質問に答えるために、この伝説について調べていたライプニッツは返信を書いてのちも、自らこの伝説の謎にひかれたらしい。ライプニッツにはこの伝説についていくつかの書きつけの断片が残されている。そのなかには、ハーメルンの子供を連れ去ったのはロンシファールとも呼ばれる妖怪で、この妖怪は一説には神の罰を受けて、ピレネーからシュレージエンのリーゼンゲビルゲまで追放されたリューベツァールと同じものだと書かれている一片もある。またキルヒャーの『普遍的音楽技法』についてもコメントが加えられている。そこではキルヒャーが悪魔が子供を連れ去ったとしている部分について、「私が想像するにそれは決して悪魔ではなく、子供を連れ去った詐斯師・手配師であったと考えられる。現在でも詐欺師が子供をトルコ人に渡そうとしていることをわれわれは知っている……」と書いている。  最後のノートでは子供の十字軍との関連が論じられている。そこでは子供の十字軍がマルセイユ、ジェノヴァまで向い、一部はブリンディシで司教に制止されたが、船に乗った者たちはサラセン人に売られるか、海に沈んだという話を、ゴットフリート・フォン・ヴィテルボの記した史料から紹介し、最後に「こうした事件はハーメルンの伝説が語られる時代と一致している。この頃にハーメルンの子供らの退出が行なわれた、と私は考えたい」とつけ加えられている。  ここにみられるようにライプニッツは、この伝説が真実か虚偽かという点を問題にするより、むしろ歴史的背景となる事実のうえにこの伝説が形成されたとみていた。ライプニッツは「この伝説のなかには何か真実なものがある」と述べている。そしてこの伝説の背後に歴史的事実を認め、追求しようとする姿勢はライプニッツ以後現在にいたるまで変らずに保たれている。  ライプニッツの調査は手書きのままで活字にならなかったから、同時代人に広汎な影響を与えることは出来なかったが、啓蒙思潮の展開とともに伝説の謎を歴史的に解明する道を開くきっかけとなった。こうした状況のなかで、一八世紀になると先にあげた、いろいろな説が生み出されていった。  その最初は「ゼデミューンデの戦闘説」を唱えたヨーハン・クリストフ・ハーレンベルクである。ハーレンベルクは一七四〇年頃の記録のなかで、市の守護職エーフェルシュタインが、市にとって望ましくない新しい都市領主(ミンデン司教)への抵抗を呼びかけ、一二六〇年七月二八日に司教軍の攻撃を迎え撃《う》って、ゼデミューンデで戦闘が行なわれたという。その前に司教はハーメルン市内にこっそりと笛吹き男を送り込み、戦闘能力のある市民の子弟に、「言う通りについて来れば勝利は君たちのものだ」と約束して教会や市内から誘い出して闇討ちしたうえ、戦ののちにも一三〇人を捕えてミンデンへ送った。そのためにこの伝説が生じたという。ハーレンベルクのゼデミューンデの戦闘説には歴史的根拠は薄弱である。だがハーレンベルクがこの伝説の背景として具体的な史実を指摘し、歴史的に説明しようとしたために、以後の伝説研究に大きな影響を及ぼすことになった。 [#挿絵(img/fig60.jpg)]  ハーレンベルクの影響を直接に受けたのはクリストフ・フリードリッヒ・ファインである。彼は一七四九年に出た『暴かれた寓話——ハーメルンの子供たちの失踪』のなかで、ゼデミューンデの戦闘説に立ちながら、自らハーメルン市新門の碑文を発見し、この戦闘と結びつけて、子供たちの失踪は一二八四年ではなく、一二五九年であったと主張した。すでにみたように新門の碑文の一五三一年という年数から二七二年を引いて、一二五九年という年を割り出したのである。こうしてファインはゼデミューンデの戦闘をこの伝説の背景とみる説を確立し、長い間この説が真の解決とみなされていた。多くの著者は解放戦争とドイツ統一のための努力のなかで、当分の間この説を祖述しつづけたのである。  その他に、この時代に子供たちが地震で死んだという説や、手配師によってジーベンビュルゲンへ連れ去られたという説、さらにアメリカ移住説までいろいろな説が現われるが、いずれも格別な根拠をもっていたわけではない。 〈ハーメルンの鼠捕り男伝説〉を民衆の虚構として否定し、合理的な検証によってその歴史的背景を解明しようとする知識人の努力は、啓蒙思想の影響下において最も盛んに営まれ、実を結んでいった。だが啓蒙主義思想は民衆の伝説の非合理性を暴き、理性的な「近代」世界へ民衆を導こうとすることによって、状況によっては反権力的な内容をも自在に包含しうる伝説の自由奔放な性格を否定し、知識階級による庶民支配を貫徹しようとしたともいえるのである。  ローマン主義の解釈とその功罪[#「ローマン主義の解釈とその功罪」はゴシック体]  ところで一九世紀のドイツはイギリスやフランスと違って、統一国家をなしておらず、数多くの領邦に分裂したままであった。このような領邦の分裂を下から克服すべき市民階級も、先進資本主義国と比べて弱体であったから、国家統一のイニシアティヴは強力な領邦、特にプロイセンの武力と政治力にまたねばならなかった。実際プロイセンはそのための準備を着々と進めていたのである。  しかし武力とそれに基づく政治力だけでは国家統一は出来ない。国家の統一には人心の掌握が何よりも不可欠な前提だからである。この点でプロイセンは大きな困難に直面した。なぜならドイツの各領邦はそれぞれ、ゲルマン民族移動期まで遡ることが出来るような個性的な歴史的伝統をもっており、言葉も習慣もそれぞれかなり異なっていたからである。それぞれの領邦はラント=国家としての意識をもち、それぞれ君主を戴いていた。このような事態がドイツ全体としてはどれほどの障害をもたらしていたかは容易に想像されよう。ハーメルンのそばを流れるヴェーゼル河には、一六世紀には二二ヶ所も税関があったのである。  そこで国家統一を上から行なおうとする時、武力その他についで必要とされたのは、これら各領邦の現在の時点での違いを越えて共通なものを発見し、ドイツ統一の拠り所をつくり出すことであった。そうした点ではまさにドイツが帝国を形成していた中世こそ、一九世紀におけるドイツ民族統一の決定的な拠り所として浮び上ってくることになった。こうして一九世紀には中世史研究がドイツ民族共通の過去の研究として各地で澎湃として起ってきたのである。  また中世史研究と並んで、各領邦の違いを越えてドイツ語圏の人々に共通な生活の在り方を探し出すことによって、民族の一体性を明らかにしようとする目的で、民俗学研究も盛んに営まれるようになった。  このような意図と方向をもった中世史研究や民俗学研究においては、啓蒙主義の伝統をそのままの延長線上でうけつぐことは出来なかった。啓蒙主義はいわば封建遺制や絶対主義体制との対決のなかで生み出されていったのだが、ドイツにおける中世史研究や民俗学研究は封建遺制や絶対主義に対する闘いのなかで進められたのではなく、それらを越えて、民族に共通の歴史的遺産を発見しようという志向によって貫かれていたからである。いわば一九世紀のドイツ知識階級は近代統一国家形成への志向のなかに、庶民の歴史感覚や生活感覚をも汲みあげてゆくために、民間伝説の採集や地域史の研究を行なったということも出来よう。  いわゆるローマン主義の運動もその一環とみることが出来る。特にグリム兄弟による判告録や古伝説の蒐集の果した役割は決定的に大きかった。グリム兄弟はドイツの民衆の過去の生活を再現することによって、ドイツ民衆運動の伝統に再びたちかえる可能性を発掘した点で、高く評価されなければならないだろう。  しかし同時に民衆伝説の採集・確定が、他方で近代国家形成の担い手たるべき民衆の生の感情を上から[#「上から」に傍点]汲みあげることによって処理する、という側面をもっていたことも忘れられてはならないだろう。グリム兄弟自身ハーメルンの伝説を書物から採録したにすぎず、メルヘンの場合のように、口伝の原型から自分たちの筆を通して作品にまでつくりあげることはできなかった。ローマン主義は伝説の奥深い本質を明らかにした点で功績があったが、伝説の新しい形は生み出さなかったといわれるゆえんである。  彼らは啓蒙期の研究者のように伝説を合理的に分析し、その非合理性を暴いてゆくというやり方は否定する。どのような伝説もメルヘンも、神話と同様にそれ自体のなかに汲めどもつきない無限の価値をもっており、民衆の精神の啓示であるとみたから、歴史的な分析や研究よりもむしろ伝説を再現し、それがおのずから働きかけ、享受されるようにしようと努力したのである。この方向はたしかに啓蒙期の研究から一歩出たものであった。  しかし伝説形成の歴史的分析を遠ざけ、確定された伝説のひとつの形をもって民衆精神の啓示とみるとらえ方は、他方で本来柔軟な発展の可能性をもった民衆の精神を絶対化し、さらに固定化する方向へと向わざるをえない。この道は必然的に絶対化への基準を求めて、ゲルマン時代の神話の世界へとつながってゆく。グリム自身、伝説やメルヘンの個々の特徴を神話から理解しようとしたが、その方向はグリム以後のあまりすぐれているとはいえない後継者によって、より極端なまでに進められた。  その代表的なものがゲッチンゲン大学補佐官ミュラーの『ハーメルンの不幸な子供たちの失踪』(一八四三)である。ミュラーはここで、ゼデミューンデの戦闘と一二八四年の子供たちの失踪との二つの事件を伝説成立の背景とする説を批判し、原則としてこの伝説の成立を現実の歴史の特定の諸状況に帰せしめようとする方法を拒否している。  民衆というものはたとえ明らかに歴史的事実に基づくものであっても、ひとつの伝説に神話的な色彩を与えることを好むものだという。そしてそのような特徴を〈笛吹き男〉の描写に見出し、〈笛吹き男〉は妖精的存在であり、妖精は常に幻想的な服装で現われ、不当な扱いを受けると復讐をするという。特に音楽を使って母親から子供を奪ったり、人を山に誘い込んだりするものだという。こうしてミュラーはこの伝説を構成する主たる要素の形だけを神話に分解し、解釈を加えているのである。  ノルクもまた『民衆の伝説とメルヘンの神話学』のなかで西欧の神話において鼠が果した役割について論じた際に、ハーメルンの伝説にも触れている。彼は疫病によって子供が多数死亡したことが、この伝説成立の背景にあったという。市が〈鼠捕り男〉に報酬を拒否した時、ペストが蔓延し、子供たちを山の中すなわち中世の庶民の表現における死者の国・地中に連れていったのだという。舞楽禁制通りとは死者の葬列が通ったからこの名がつけられたとする。  またヴォルフは『ドイツ神話学研究』(一八五二)において、山の中で人間が行方不明になるのはたいてい侏儒《しゆじゆ》によるものだと論じ、〈ハーメルンの笛吹き男〉もそのような侏儒であったという。そこでロルシュ地方のすでに紹介した伝説が引合いに出される。  その他死者の霊がしばしば生者をもひきよせるという理解から、ゲルマン民族の最高神で、死霊たちの統率者でもあるオーディン(ウォータン)の性格がハーメルンの伝説を形成したという説も現われた。鼠はそこでは死者の霊だというのである。また子供が鼠にかえられて連れてゆかれたともいわれ、子供のことをドイツではしばしば「|小鼠ちゃん《モイスヒエン》」と呼ぶことなどが指摘される。ここまでくるともはや真面目に議論する気を失ってしまう。 [#挿絵(img/fig61.jpg)]  このような例は枚挙にいとまがないほどであるが、ここにみられるような恣意的な解釈は、ローマン主義の最も俗悪な側面を示しているといえよう。どのような伝説もメルヘンもそれ自体のなかに汲めどもつきない無限の価値をもち、民衆の精神の啓示であるという重要な指摘から出発しながら、これらの著作家たちは「民衆の精神」やその「無限の価値」を自ら勝手につくり上げる。  こうして民衆が長い年月の間にその生活の苦しみのなかから吐き出し、語り伝えてきた伝説を仮構の価値において裁断し、庶民の心情とはこのようなものなのだ、と高いところから解説する。こうした解説の試みは知的な遊びにとどまっているだけではすまず、往々にして容易に政治的な性格を強くもつことがあった。その例としてモーリッツ・ブッシュの解釈がある。彼は一八七五年に政治雑誌『グレンツボーテン』にのった論文のなかで〈笛吹き男〉には神話的な核があるという。ゼデミューンデの戦闘とその後の出来事は、異教の時代からヴェーゼル地方のゲルマン民族に生きつづけているところの神話が結晶化したものであり、〈笛吹き男〉はアーリア民族の死者の神で、その死神が人間を連れ去ったのだという。そして「永遠のユダヤ人と同様に、鼠捕り男も何年か前に現われ、銀の笛をハノーヴァー全域に吹き鳴らしたが何の効果もなかった。望むらくはこの次に三度目に現われる時には、何千人かのヴェルフェン人を連れ去ってくれるように」とつけ加えている。ビスマルク伝の作者として知られたブッシュはプロイセンによるドイツ統一のシンボルとして、〈笛吹き男〉を位置づけようとしたのである。ここではいうまでもなく、ホーエンツォルレルン家のプロイセンによるドイツ統一の障害となっていたハノーヴァーを中心とするヴェルフェン家の支配体制が問題になっている。ハノーヴァー王国とプロイセンは隣接していた。一八六六年にはヴェルフェン家のゲオルク五世はプロイセンの進出に抗してハプスブルク側についたが、結局は敗れ、一八六七年にはプロイセン指導下の北ドイツ同盟に、一八七一年にはドイツ帝国のもとでハノーヴァーはプロイセンに併合された。こうした事情がブッシュの言葉の背後にはあったのである。  ユリウス・ヴェーバーは『ドイツ——あるいは国内を旅行するドイツ人の手紙』(一八二六)においてさらに直截に論じている。すなわちこの伝説の核心は、幻想にとらわれた修道士が子供たちを空想的な十字軍に仕立てて連れていったか、あるいはゼデミューンデの戦闘にあるのだろうと記したあとで、突如として次のように述べている。「なぜこのような鼠捕り男はもういないのだろうか。鼠どもは恥知らずにも、由緒ある貴族の証書や特許状を齧るばかりではない。革命の子供たちは声高に憲法や法律、さらに法の前での平等について叫んでいる。だから鼠捕り男がこれらドイツの屑どもを、地中を通ってトルコの黒海にまで連れ去ってくれたなら、ハーメルンよりももっと高額な報酬を得るであろうに……」  ヴェーバーはハーメルンで〈鼠捕り男〉が報酬を貰えなかったことを忘れてしまったらしい。いずれにせよここでは、〈鼠捕り男〉は一九世紀の革命運動を弾圧する尖兵としての役割を与えられていることになる。  ヴェーバーとはかなり違うが、独創的な解釈をしたのはG・F・ダウマーである。ダウマーは『キリスト教古代の秘密』(一八四七)のなかで、古代から現代にいたるまで、人間を犠牲に供する秘儀がキリスト教の教義の中心をなしてきたという考えから、この伝説を分析し、ドイツの都市は皇帝ルードルフ・フォン・ハプスブルクの時代に、一都市当り一〇〇人以上の子供を犠牲に捧げているから、ハーメルンの子供たちもその犠牲とされ、近くの山に埋められた。すなわちハーメルンの子供たちは殺されたのだ、と説いた。ヨハネの祭はまさにそうした犠牲を捧げる祭であり、殺害がその日よりおくれて行なわれたのは市民が抵抗したためであったという。ダウマーは殺害の模様まで描いてみせる。 「笛吹き男は町を歩く。おそらく聖職者も一緒であっただろう。これは両親に子供との別れの時がきたことを告げるためであった。市長グルエルホートすら、自分の娘を犠牲に供した。片端の子供が残ったのは犠牲者として不適格であったからだ。他の子供たちは穴のなかで殺害された。頭は地上に並べられた。犠牲となった子供たちはこの地方を守る役割を担った。……」  このような犠牲を捧げる儀式は毎年行なわれた。ただ通常はそれぞれの家が子供の霊の代りに一匹の鼠を出したのだが、一二八〇年以後のおそるべき出来事のなかで、その慣習が変えられ、実際に子供が犠牲に供されたのだという。  ダウマーのこの書物はどう評価すべきであろうか。三月革命の直前に出されていること、また二〇世紀に入ってからも社会主義関係の書物を多く出している書店から出版されていることからみて、かなりの読者をもっていたと想像される。いずれにせよブッシュとヴェーバーのあたりからこの伝説の解釈はひとつの段落に到達したといえよう。  ★心理学者のC・G・ユング(一八七五〜一九六一)はウォータン説を出している。ユングによるとウォータンは休むことなき放浪者、かつての嵐の神であり、陶酔と激情の解放者である。ウォータンはキリスト教によって悪魔の世界に追いやられ、まさに悪魔すなわち鼠や大地の主人となった。その名前は「怒りを生ぜしめるもの」の意で、アダム・フォン・ブレーメンも一〇七〇年に「ウォータンは怒りなり」といっているという。ウォータンの本質は陶酔にあり、すべてを動きのなかにつき込む。その際に音楽は大きな役割を果す。シャーマンの踊りやディオニソスのオルギーにおける音楽のように。ハーメルンでは鼠捕り男はまさにこのウォータンの精神をもつものとみなされ、陶酔にかかりやすい子供をまき込んだとみられる。子供が山に連れてゆかれたのは、ウォータン伝説において山が不可欠だからであり、さらにまた見知らぬ山の内部は無意識な領域のシンボルだからであると説いている。 [#改ページ]  第三章 現代に生きる伝説の貌  シンボルとしての〈笛吹き男〉[#「シンボルとしての〈笛吹き男〉」はゴシック体]  一六、七世紀以来〈ハーメルンの笛吹き男伝説〉は、教会や神学者による民衆教化の手段として、あるいは不可解な運命に弄ばれてきたドイツ民族の過去の解明の一手段として、あるいは解放戦争、ドイツ統一運動へ民衆を結集する手段として、あるいは民衆精神の発露として、あるいは単なる知的好奇心の対象として、それぞれ神学、啓蒙思想、ローマン主義、歴史学などの対象とされてきた。また文学や音楽の分野でもこの伝説は格好の題材とされ、ゲーテも一八二三年に『鼠捕り男』と題する子供向きの絵入りバラードを書き、大変よく読まれたという。シューベルトやヴォルフなどの音楽家もそれを使って作曲している。 [#挿絵(img/fig62.jpg)]  その結果、この伝説は全世界に普及してゆくことになったが、同時にこの伝説に登場する笛吹き男と子供たちがひとつのシンボルとして位置づけられてゆくことにもなった。〈ハーメルンの笛吹き男〉という言葉は、もはやヴェーゼル河沿いの小さな町で起った、約七〇〇年前のひとつの事件とはまったく関係のない普通名詞として、良い意味でも悪い意味でも先導者・誘惑者のシンボルとなったのである。  すでにゲーテは『ファウスト第一部』において、〈鼠捕り男〉を誘惑者やデマゴーグの代名詞として使っているし、ハイネもゲーテについて「老詩人よ、君はハーメルンの鼠捕り男を想い出させる。朝に笛を吹かば、愛すべき小さな歌い手があとにつづく」と書いているという。そうした文学作品ばかりでなく、新聞や雑誌においてもこの言葉はドイツの内外で使われるようになった。イギリスの著名な政治家グラッドストーン(一八〇九〜一八九八)が議案を否決されて、野党の先頭に立って議会から退出した時にも、〈鼠捕り男〉としてカリカチュアライズされたし、ヒトラーも『わが闘争』のなかでハプスブルクとの同盟政策をとった者たちを「ハーメルンの鼠捕り男」とレッテルをはったが、自分自身にも同じレッテルがはられたという。 [#挿絵(img/fig63.jpg)]  ごく最近の例をとってみても、一九七一年九月一八、一九日の『ディ・ヴェルト』紙(西ドイツ)は、ハーヴァード大学の心理学教授B・F・スキンナー(一九〇四〜)の『自由と尊厳の彼方に』を酷評して、スキンナーに「ハーヴァードの鼠捕り男」という称号をささげた文章をのせている。なぜならスキンナーが鼠の観察から人間の問題に発言しているからであるらしい。また経済学者として著名なミシャン教授もその『経済成長の代価』のなかで、高雇傭水準の結果、西欧諸国でも少年少女の財布が経済成長とともに急速に拡大された市場となっていることを指摘し、「ニューヨークの広告街マジソン・アヴェニューが提供した魔法の笛を使って、私企業は〈ハーメルンの笛吹き男〉として新しい役割を果すようになったといってよく、そのうしろには若者たちの群が、金をチャラチャラ鳴らしながら、われさきに流行を追い合う形でついていくのだけれど、もちろん彼らは誰のあとについているのか何も知らないし、何処へ行こうとしているのかについても考えてもみない」と書いている。(都留重人監訳・岩波書店 二四〇頁 一部改訳)  こうしてシンボルとなった〈笛吹き男〉は、もはや伝説の真の担い手であった庶民とはまったく関係のないところで、象徴と化して知識人の用語となり、全世界で使われるようになった。識者がこの言葉を用いてハーヴァード大学教授を皮肉る時、誰も一二八四年六月二六日に行方不明になった一三〇人の子供たちの運命に思いを馳せはしないだろう。  伝説の中を生きる老学者[#「伝説の中を生きる老学者」はゴシック体]  学者や政治評論家によるさまざまな解釈にもかかわらず、現在でもこの伝説は庶民の間ではキルヒャーやグリムが伝えたような形で語られている。子供たちが地中を通ってジーベンビュルゲンへ行ったという話はキルヒャーにみられ、エーリッヒもほぼ同様に伝えているから、一七世紀中葉には広く普及していたと考えられる。それ以前にも一五八九年には、ハンニバル・ヌレイウスは子供たちが地底を通って新しい国に現われたという話を伝えており、一六世紀にもかなりの程度に広まっていたとも考えられる。もとよりこうした話は、子供たちの失踪という耐えがたい事実に、何らかの形で救いを残そうとする試みの結果、つけ加えられたものとみることも出来る。  だがこの伝説の歴史的背景をめぐる研究が進展してゆく半面、庶民の間では、子供たちがこの住みにくい世界を旅立ってどこか遠い国で、幸福に暮しているというモチーフがこの伝説に色濃く刻み込まれていった。  学者がどのように解釈し、解明しようとも、〈ハーメルンの笛吹き男と一三〇人の子供の失踪〉の伝説はたとえ原型からどんなに変貌しようとも、忘れ去られることはないだろう。親が成長した子供を旅立たせ、親しい者同士が別れを告げ、あるいは住みなれた土地を去って未知の国に旅立ってゆく時、あるいは現在の生活に絶望した親たちが子供に美しいバラ色の未来の国を期待している時、このようないつの世にも変らない情景がみられる限り、人々の胸の奥底に生きつづけることだろう。また人間が他の人間を差別の目で見ることをやめない限り、〈笛吹き男〉はいつの世にも登場するだろう。  伝説を尊大な態度で裁断してみせるのではなく、このような庶民の心情を理解し、伝説の世界に身を浸しながらそれを生きようとするような研究者もまた、必ずどこかに見出せるに違いない。すでに啓蒙主義者ベッカーを批判した無名の文章の著者は、一七〇五年に、「知に傲《おご》れる」伝説の解釈や否定によっては、伝説の本質をとらえることは出来ないと述べ、伝説それ自体にはいかなる研究も批判も奪うことの出来ない独自の価値がある、と書いている。(シュパヌート『ハーメルンの鼠捕り男——古伝説の成立と意味』一五〇頁) [#挿絵(img/fig64.jpg)]  二〇世紀におけるそのような研究者の一人として、本書の後半で依拠するところの多かったハインリッヒ・シュパヌート氏(一八七三〜一九五八)に触れないでおくわけにはいかない。 〈ハーメルンの笛吹き男伝説〉は人々をひきつけ、とりこにするような魔力をもつ伝説であるらしい。はしがきで書いたように、私自身ふとしたきっかけからこの伝説にひきつけられ、ついにこのような書物を書くまでにこの伝説の世界に入り込んでしまったのだが、すでに扱ったヴォルフガング・ヴァンもまたその一人であった。  ヴァンの関心の根源には、東部地方から強制送還された数百万人にのぼるドイツ人の嘆きと希望があり、七〇〇年来の自分の故郷を見捨てなければならなかった人間が、七〇〇年前の〈笛吹き男伝説〉に失われた故郷への絆を見出さんとする願いがこめられていた。  だがヴァンも私もまだ老年とはいえない時期にこの仕事に手を染めたのである。研究者である以上、その対象に深い愛着と緊張感をもつのは当然のことであろう。ところがハインリッヒ・シュパヌートが『ハーメルンの鼠捕り男——古伝説の成立と意味』なる学位論文をゲッチンゲン大学に提出したのは一九五一年、シュパヌートが七八歳の時のことなのである。  論文末尾の履歴の最後にシュパヌートは多少誇らしげに、「私は一九〇〇年七月一二日にマーサ・オェルテルと結婚し、二年前に二人とも健康ななかで金婚式を祝った。七人の子供をなしたが、二人は幼くして死亡し、息子の一人は今次大戦で一九四二年九月にスターリングラードで戦死した。私たちには一七人の孫が恵まれている」と書いている。七八歳の時に学位論文を提出するということは老研究者の多いヨーロッパでも並大抵のことではなく、まったく稀有のことなのである。しかも彼の論文は高く評価(マグナ・クム・ラウデ)されたのである。何がシュパヌートをそこまで駆りたてたのだろうか。  シュパヌートは一八七三年にハノーヴァーの牧師の子として生まれ、ゲッチンゲンとマールブルクの両大学で神学と哲学を学んだのち、「教師になりたいという思いもだしがたく」、ドールムのギムナジウムの教師となった。その間にも再びゲッチンゲンで歴史と国語の研究をつづけ、一九一二年にハーメルンの女学校の校長となった。そこで長い間教育活動を営みながら、宗教教育、歴史教育を仕事とし、専門的論文を雑誌に寄稿し、宗教教育の書物なども編んでいた。歴史関係の論文の執筆もかなりの数にのぼった。ところが一九三三年七月一日、まだ停年にはかなり間があったのに、ドイツ民主党党首でヴァイマール憲法の制定にも力があった、ナウマンの信奉者だったという政治的理由で、シュパヌートはなかば強制的に退職させられたのである。  いうまでもなくこの年のはじめにナチスが政権を獲得し、六〜七月には弾圧が他の政党その他にも及んでいた。社会民主党は禁止され、党員の多くは亡命した。七月一四日にはナチ以外の党の結成は禁止された。ハーメルンでもこの年の三月の国会選挙ではナチが第一位となり、共産党は三分ノ一に議席を減少していた。さらに一一月一二日の投票では、ナチの外交政策を支持する者はハーメルンだけで一万七六四五、支持しない者は一〇四三、無効票四三七となっていた。このような状況のなかでは、シュパヌートはそれまでの教育への情熱を他の分野に向けざるをえなかった。それが民俗学や郷土史の研究だったのである。  彼は好事家的にではなく、これらの分野においても学問的な方法で精力を集中し、満たされない想いをおのれの郷土の歴史の解明に向けたのである。シュパヌートはこの新しい分野においても数多くの論文を新聞や雑誌に発表し、とりわけ本書でもしばしば利用されている『ハーメルン市史』の執筆に情熱を注いだ。そのときシュパヌートは〈鼠捕り男伝説〉と再会したのである。  それははじめほんの偶然の結果にすぎなかった。一九三四年夏、シュパヌートが退職した翌年にハーメルン市は〈鼠捕り男伝説〉の六五〇年祭の開催を計画したのである。それはどのような記念祭にもみられるように最初は単なる行列、祭劇といった企画でしかなかったが、最後の瞬間になって市の委員会は本質的なものが見落されていることに気付き、シュパヌートに伝説そのものとその発展についての展示を行なうよう依頼したのである。  公然と世間に出ることが出来ない立場におかれていたシュパヌートであったが、こうした仕事なら安全だと市当局は考えたのである。準備の期間は六週間しかなかった。しかしシュパヌートは自分の他の仕事のすべてを中止して、この仕事にとりかかった。シュパヌート自ら述べているように、当時は「この仕事が何を意味しているのか、この一歩が自分自身と自分の将来の生活にどれほどの影響を与えることになるのかまったく予感してはいなかったのである」 「人生には自分が自発的に行動しているように見えず、ただ何かの道具でしかないように見える時期がある。そのような時、われわれはあるがままの自分自身から高められ、平常なら到底出来そうもないような仕事を遂行してしまうものだ」。シュパヌートはこの展示会を引受けた時の状況をあとから回想して、このようにしか説明出来ないと述べている。  展示会は終った。あとに残されたのは伝説に関する夥しい数の史料と、これまでまったく知られていなかった、あるいは名前しか知られていなかった文献等であった。すでに展示会の準備のために史料探訪を行ない、発註し、借り出し依頼をしたり、編集したりする過程で、シュパヌートはこの伝説研究の当時の水準を知悉するにいたった。自ら多くの素材を集めた結果、これらの史料はまったく新しい観点から編集し直さねばならないとの確信を深めたのである。 「私は一夜にして研究者となった」——この頃にはすでにシュパヌートは、自分が死ぬまでこの伝説から解放されることはあるまいという予感を抱いていた。「私は鼠捕り男に身も魂も奪われてしまったのである」と。  展示会は大成功であった。多くの人々はこれらの厖大な展示物を博物館に集めるべきだという意見を寄せたが、それらのほとんどは各地の文書館その他から借り出したもので、返却しなければならなかった。そこでシュパヌートは多くの人々の保存を求める声を共同体の依頼とみなし、それらの史料を遺漏なく編集する作業をまったく独力で開始したのである。  シュパヌートとヴァンの出会い[#「シュパヌートとヴァンの出会い」はゴシック体]  幸いなことは、シュパヌートは決して孤立していたわけではなかった。一九三四年夏の展示会に、当時三一歳だったトロッパウの文書館員ヴォルフガング・ヴァンがはるばる訪ねてきたからである。  ヴァンはすでに述べたように、ズデーテンドイツ人の祖先をヴェーゼル河のハーメルンの町に探し求めてこの伝説に辿りつき、おりから開かれた六五〇年祭の展示会の話を聞いてはるばる訪ねてきたのである。六一歳の老教師と三一歳の若き文書館員は、一二八四年の一三〇人の子供の失踪事件について、おそらく夜のふけるのも忘れて話し合ったことだろう。そこでヴァンはすでに東ドイツ植民説との関連について、〈笛吹き男〉は植民請負人ではなかったのか、という説を開陳した。  そのような視角は老シュパヌートには思いもよらぬものであっただろう。若さのきらめくような才能のほとばしりに、シュパヌートには同学の士への競争心は消えてゆき、全面的にヴァンの研究に協力することを約した。実際シュパヌートはその後かなりの間、ヴァンの東ドイツ植民説によってこの伝説の謎は解明されたと信じたほどなのである。ヴァンの理論には冷静に検討すればかなりの無理があるのだが、そこには何かを求める生身の人間の真実の姿があり、その姿に人は打たれてしまう。こうしてシュパヌートは自分の仕事を伝説の成立以後の変貌に限定し、原因の究明はヴァンに委ねた。老研究者と若き研究者との提携は、こうして緊密に結ばれたのである。  二人の協力は一九三六年に見事な実を結んだ。『ハーメルン市文書集』(一八八七・一九〇三)を編んだマイナルドゥスが、この伝説の六〇〇年を記念した論文を発表して以来、この伝説の研究はいわば暗礁にのり上げていた。原因の究明には何か決定的な新しい史料が発見されねばならない段階に来ていたからである。ところがライプニッツの協力者ダニエル・エーベルハルト・バリングの手紙のなかに、一七一九年にリューネブルクでライプニッツの『ブラウンシュヴァイク年代記』の校正をみていた時、ハーメルンの子供たちの失踪についての羊皮紙の書類を発見し、読んだという記述をロタートという研究者が一八七一年に発見していたのである。  これを知ったシュパヌートは一九三四年の展示会のために、その羊皮紙文書の借り出し方をリューネブルク文書館に依頼したが、不明という返事であった。そこの手書本類は新しく整理され、カタログ化されたためにかえって発見することが困難になっていたのである。  一九三六年八月に、シュパヌートは再びハーメルンを訪れたヴァンとともに、どうしてもこの羊皮紙文書を発見しなければ伝説研究は一歩も進まないと考え、自分たちの手で探すべくリューネブルクの文書館を訪れたのである。  幸運なことに数時間探し求めた結果、シュパヌート自ら二〇〇年前にバリングが読んで以来、行方不明となっていた文書を発見することが出来たのである。それはバリングが書いているような羊皮紙文書ではなく紙文書であったが、本書のはじめにも触れたように、この『リューネブルク手書本』はそれ以後の伝説研究に決定的な影響を与えた一大発見なのであった。  シュパヌートの研究は伝説の発端をなしたと思われる歴史的事実の究明ではなく、この伝説の変貌の過程を探るという比較的地味な分野に向けられていた。しかし彼の研究は原因の究明に劣らず重要で、深い意味をもっている。シュパヌートは持前の徹底した文書探索によって、ありとあらゆる文献を探し出し、それらを通じて伝説の変貌の過程を描いた。その視覚は一言でいえば、柔軟この上ない民衆伝説を知識人がどのようにしてとらえようとしてきたか、という点の批判的検討であった。  知識人がいろいろ努力を重ねて民衆伝説をとらえようとする場合、そこにはどうしてもその知識人がおかれた社会的地位が影を投げる。歴史的分析を史実の探索という方向で精緻に行なえば行なうほど、伝説はその固有の生命を失う結果になる。伝説を民衆精神の発露として讃えれば政治的に利用されてしまい、課題意識や使命感に燃えて伝説研究を行なえば民衆教化の道具となり、はてはピエロとなる。民衆伝説の研究にははじめからこのような難問がつきまとっているのである。  研究者は常に研究者同士仲間をつくる。それは学界《ツンフト》として社会的に承認され、そこでは互いに「才能」と「努力」を競い合う。だがこの難問を打ち破るには才能はまことに危険な道具である。ただひたすらに伝説の世界に沈潜し、知を頼らず、愚者として伝説の変貌の必然性を体験するしかないだろう。そうした点でシュパヌートは決して「学者」ではなかった。  もとよりシュパヌートも大学を出、七八歳で学位論文を出して博士となったのだから、いわゆる知識人である。しかし彼は知識人としての特権をほとんど享受することがなかった。一小都市の教師としてほとんどその一生を送り、讃えられて退職する前に、その自由主義的心情のため強制的に退職させられた。世間的に十分に認められた栄誉ある一生を送ったわけではない。そうした人生の中に、かえってシュパヌートには庶民たりうるささやかな条件があったともいえよう。彼はそのほとんど一生を、自分の情熱を注ぐ対象との緊張関係のなかで過したのである。これは大変幸せな一生であったといえよう。その仕事が世間に知られなくてもシュパヌートの世界は完結し、満たされているからである。  ドイツから遠い日本にいて特に無念に思われるのは、このシュパヌートの仕事がその名だけは知られるようになったにもかかわらず、いまだにドイツ本国で出版されないまま、七八歳のシュパヌートがタイプを打った原稿としてしかゲッチンゲン大学図書館に残っていないことである。私はシュパヌート自ら、ミスタイプした部分をペンで補修した原稿を読みながら、なぜこれほどの研究が出版されないのかはじめは不思議でならなかった。そのような感慨を抱くのはシュパヌートの世界にはほど遠いからであろうか。 〈ハーメルンの笛吹き男伝説〉が最終的に「解明」されることは、おそらく近い将来にはないだろう。それまでは書を読み、文を綴るほどの者は伝説と自己との無限の距離の重みに耐えつづけなければならないのだろうか。 [#改ページ]  あとがき  本書のはじめに述べたように、このささやかな書物は私のこれまでの研究生活のなかに思いがけなくも咲いた、小さな花のような位置を占めている。小さな花はもとより私の力で咲いたものではないが、私に大きな種子を育てるように迫っているように思える。この書物のなかで、私はこれまでの西洋史学においてはほとんどとりあげられることのなかった民俗学の分野や民間伝承、さらに都市下層民の生活に目を向けようとした。ヨーロッパ社会史は単に法制史、政治史、経済史等の積み重ねによってではなく、民衆の日常生活とその思考世界に接近することによってはじめて、その内実を得ることが出来ると考えたからである。  しかしいわゆる民衆史を中心にすえた社会史なるものは、これまでの法制史、政治史、経済史研究等の単なる延長線上にあるのではないことを私は本書の執筆過程で痛感させられた。  では民衆史を中心にした社会史はどうしたら可能なのか。これが本書が私に課した大きな課題である。この課題は何よりもまず、これまでの歴史研究、すなわち生活現実を理知的に解明せんとして、長い間知識人が行なってきた知的営為そのものに対する批判的反省として、出発しなければならないだろう。それ自体知的な営みであるしかないこの方法は堂々めぐりになる危険性を常に孕んでいる。しかし、さしあたりはこの方向をつきつめていくしかないように思える。  一方で中世都市や農村、さらに近代にまでいたる庶民の生活を具体的に掘り起してゆく努力を地道につづけながら、他方でユストゥス・メーザーにはじまる民俗学や社会・経済史研究の意味について方法的反省を加える、そのような方向をさしあたりは考えている。いずれにせよ本書は私にこのような種子をうえつけたことになる。  小さな研究ではあるが本書も私一人の力で生まれたのではない。数年前、ドイツから帰国して、様々な話をしているなかでたまたまハーメルンの伝説に話が及んだとき、耳ざとくもその話をひろいあげ、論文にまとめるように提案したのは岩波書店で当時『思想』の編集部にいた石原保徳氏であった。当初私は二五〇枚位を予定していたので、『思想』向きではないと考えたのだが、石原氏はエッセンスだけでも書くように説き、結局その論文が本書の原型となった。 『思想』の論文が一九七二年一一月に出てから二週間もたたないある日、小樽の私の家に電話をしてきて、書物にまとめるようにいわれたのは平凡社の吉村千穎氏であった。北辺の地でひっそりと暮していた私は、吉村氏のアンテナの高さにびっくりしたものである。それからのち、執筆を引受けてからも吉村氏の適切な支援を得て、とにかく本書が出来あがった。ここにお二人に特に感謝するしだいである。  一九七四年九月一四日 [#地付き]阿部謹也 [#改ページ]       *参考文献*[#「*参考文献*」はゴシック体] ———————————————————————————— [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 伝説に関する史料[#「伝説に関する史料」はゴシック体] 'Quellensammlung zur Hamelner Rattenfangersage'. Hrsg. von Hans Dobbertin. Schriften zur niederdeutschen Volkskunde. Bd. 3 Gottingen 1970 笛吹き男,鼠捕り男伝説に関する文献[#「笛吹き男,鼠捕り男伝説に関する文献」はゴシック体] Wann, W., 'Die Losung der Hamelner Rattenfangersage. Ein neues Sinnbild des Abendlandes'. Diss. Wurzburg 1949 Spanuth, H., 'Der Rattenfanger von Hameln……Vom Werden und Sinn einer alten Sage……'. Diss. Gottingen 1951 Dobbertin, H., 'Der Auszug der Hamelnschen Kinder (1284). Ein Vermißtenschicksal der Kolonisationszeit wurde zur Volkssage'. Schriftenreihe der ÔGenealogischen GesellschaftÕ zur Geschichte der Stadt Hameln und des Kreises Hameln-Pyrmont. H. 19 Hameln 1958 —————, 'Wohin zogen die Hamelschen Kinder (1284) ?' Hildesheim 1955 Woeller, W., Zur Sage vom Rattenfanger von Hameln. 'Wissenschaftliche Zeitschrift der Humboldt-Universitat zu Berlin'. Jg. VI. 1956/57 Nr. 2 —————, Zur Entstehung und Entwicklung der Sage vom Rattenfanger von Hameln. 'Zeitschrift fur deutsche Philologie'. Bd. 180 1961 Gehrts, H., Zur Rattenfangerfrage. 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